たんたん評論「本歌取りの作り方」

 

 

 NHK Eテレの「NHK短歌」2019年6月第2週のお題は「傘」だった。ちなみに、ブログ主もこの言葉を含む作品をいくつか制作している。

 

 なお、今回はこの文字そのものではないが、「かさ」という言葉が書かれた作品として、次のたんたん短歌163を挙げよう。

 

我が庭に咲く山吹よ風雪にみのでなくともかさになれかし/ブログ主

 

 

 このブログ歌は古典和歌の本歌取りである。そして、ブログ主はこれを自身が主張する現代和歌のジャンルにおいて、自分史上(笑)最高傑作の一つとちょっぴり自負している。

 

 なお、本歌取りした元歌は次の古歌である。

 

七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞかなしき/兼明親王

 

 

 兼明親王(914-987)は醍醐天皇の皇子ながら臣籍となるも、結局は親王に復帰している。そして、詩歌の才能も素晴らしく、掲題が後拾遺和歌集に採られている。

 

 なお、掲題の歌意をブログ主が素直に読めば、それは凡そ「山吹の花は七重にも八重にも美しく咲くものだが、実が一つも生(な)らないのは不憫で可哀そうなことだ」である。

 

 もしかすると、或る者を念頭に置き、それが後嗣の居ないさまを山吹に擬えて、密かに憐れんだものかもしれない。

 

 

 ちなみに、この歌が現代に少なからず知られている理由は、それが落語の演目にもなっている次の有名な逸話に登場するからだろう。

 

 室町時代後期の武将で、江戸城を築城したことで有名な太田道灌(1432-1486)は或る時、にわか雨に遭って農家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとした。

 

 ところが、家の娘が現れて、道灌に山吹の花を一輪差し出した。そこで、道灌は「花ではない。蓑を借りたいのだ」と思ったが、話が通じないと諦めて農家を出た。

 

 後日、この一件を家臣に話したところ、それは親王の御歌に詠われたように、娘が差し出した山吹の花のように「実の一つも無い」、すなわち、家には「蓑が一つも無い」ことを、口に出さずに伝えようとした洒落と指摘された。

 

 こうして道灌は自身に和歌の知識が無かったことを恥じて、その後は歌を詠むようになったと言われている。

 

 

 さて、親王の御歌とそれを踏まえた道灌の逸話を更に踏まえて、ブログ主は御歌の本歌取りを詠うことを考えた。

 

 それは、元歌において、山吹に実が生らないのが悲しい、あるいは「あやし(不思議だ)」とするのを受けて、「(実)が出なくても、(松かさ)が生らないかな」と転じた積りである。

 

 もう少し詳しく読めば、凡そ次のような歌意である。

 

 わが家の庭に咲いている八重咲きの山吹よ。この世は晴ればかりではなく、厳しい風雨が吹いたり、冷たい雪が降ることもある。

 

 お前は実が出ない、実の生らないものかもしれないが、風雪に耐えるために、松かさのような実の殻が生ってほしいよ。

 

 

 なお、ここまでの歌意であれば、道灌の逸話は何の関係も無い。ただし、ひらがなで書かれた「みのでなくとも」が「実の出ない」ではなく、本当は「蓑で無くとも」と読み、そして、「かさになれかし」が「松かさ」ではなく、雨「傘」の類いと知れば、次のような暗喩に思い当たることだろう。

 

 私の大切な八重山吹のような娘よ。お前もいつかは、社会に出てゆくことだろう。そこには、この庭に吹きすさぶ風雪のような厳しい苦難や試練が待っているかもしれない。

 

 その際にお前がどんなに努力をしても実を結ばず、結果に結びつかないこともあるだろう。

 

 そして、雨の日に未だに蓑(みの)を使っているような旧態然とした対応では、それらの困難を乗り切れないかもしれない。

 

 ならば、お前は新しい時代に相応しい思考を編み出し、そして、この世の中の風雪から大切なものを守る傘のような存在となって、たゆまずに歩んでいくことを私は願う。

 

 

 ちなみに、上記暗喩を思い付くためにはもう一つ、或ることを知っていなければならないだろう。それは、森進一(1947-)が唄った「おふくろさん」(1971)である(笑)。当ブログの若い読者の皆さんには難しかっただろうか。

 

 

 それでは、皆さんも雅びな現代和歌を目指して、本歌取りを明るく楽しく詠んでいただきたい。えっ、「今回の評論も結局のところ、本歌取りの作り方の説明になっていない」ですって? 申し訳無い。本当は(作り方)なぞというものは無い。皆さんの創意工夫次第である。

 

 

 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー