たんたん評論「折句の作り方Ⅲ」

 

 

 当ブログのタイトルは、先月までは「たんたん短歌」だった。そこで、以前から当ブログをご存じの方の多くは詩歌を、特に短歌に興味があるに違いない。

 

 なお、タイトルは変わっても、ブログ主の短歌に対する愛情は変わらない。今後とも詩歌や短歌に関することを書き連ねてゆく積りでいる。皆さんには気軽に訪れていただき、何かの参考にしていただければ幸いである。

 

 

 ところで、短歌研究2017年5月号において、高島裕(1967-)は吉川宏志(1969-)の「本心」について批判しているようだ。詳しくは必ず同書を確認されたい。なお、ブログ主も凡そ高島に同意する。

 

 なぜなら、ブログ主は「短歌は芸術である」と信じており、そして、それは単なる個人の「本心」を、思考心情を記述する日記なぞではない、と信じるからだ。ちなみに、ブログ主の座右の銘は自分で考えた「芸術は虚構である。まるで、人生のように」である。

 

 

 もしも、短歌に必要なものが本心の吐露であれば、前衛も、虚構も、そして、芸術的発想も要らないことだ。また、掛詞や折句や隠し題などの言葉遊びも否定されることだろう。

 

 しかしながら、こうした聖人君子の日記を煽てていると、それを詳述できる小説や物語さえあれば短詩型は不要となるだろう。業界の中に居る人々は、現状を見て見ぬ振りをしてはいけない。

 

 

 さて、すっかり忘れていたのだが、静岡県が主催する「第3回あいのうた」の表彰式が先月2017年3月末にあった。ブログ主も次の一首を詠んで応募したのだが、残念ながら入賞しなかった。

 

あの人を祈れば遥か野にも花嬉しい旅出短歌に綴る/ブログ主

 

 

 なお、ブログ歌を次のひらがな五行書きにすれば、言葉遊びの趣向が分かるだろう。

 

のひとを

のればはるか

にもはな

れしいたびで

んかにつづる

 

 

 当該短歌コンテストの趣旨は「出会いから子育てまでを詠んだ」ものという。したがって、親子のお互いを慈しむ「本心」を欠いたブログ歌のような「遊び」が選ばれるはずもない。

 

 それでも、ブログ主は、短歌は作者の聖人君子ぶりを自慢し合う日記なぞではなく、芸術的発想力を綴る詩歌と信じている。「本心」より「遊び心」を楽しみたいものだ。

 

 

 なお、この記事のタイトルは「折句」となっているが、上記ブログ歌は本当は「沓冠」である。そこで、五句の頭を順に読んだ後に続けて、お尻も順に読んでいただきたい。

 

 

 それでは、皆さんも雅びな現代和歌を目指して、折句や沓冠を明るく楽しく詠んでいただきたい。えっ、「今回の評論も、やっぱり折句や沓冠の作り方の説明になっていない」ですって? 申し訳無い。本当は(作り方)なぞというものは無い。皆さんの創意工夫次第である。

 

 

 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー