「成人式なんて、行かなくていいよ」
「わざわざ高いお金を払って、上辺だけの再会をする必要なんてない」
6年前。
ちょうどコロナ禍の真っ只中だった私たちは、そんな言葉をどこか免罪符のようにして、成人式に行かない選択をしました。
当時の私にとって、それは合理的で、仕方のない、正しい判断だったはずです。
でも、26歳になった今。
ふとした瞬間に、胸の奥が少しだけチリつくような後悔を感じることがあります。
「もし、あの場所に行っていたら」
そんな想像をしてしまうのは、決してあの華やかな舞台に立ちたかったからではありません。
大人になって、社会という荒波に放り出されて、ようやく気づいたのです。
何の利害関係もなく、ただ同じ街で、同じ時代を過ごしたというだけで繋がれるチャンスは、
人生において指で数えるほどしかなかったのだと。
確かに、無理して行っていたとしても、今の自分と周りを比べて虚しくなったかもしれません。
仕事のこと、プライベートのこと。キラキラした誰かと自分を比べて、余計に孤独を感じた可能性だって十分にあります。
けれど、それでも。
あのとき会場の隅っこで、「久しぶり」と一言交わすだけで、細い糸のような繋がりがまた結ばれていたのかもしれない。
大人になってから「明日、暇?」と気軽に誘える誰かが、一人くらい増えていたのかもしれない。
後悔は「前向きな欲求」の証
そんな「もしも」を考えてしまう今の自分を、私は「情けない」とは思いません。
それはきっと、私が今の生活を一生懸命に生きていて、心から信頼できる「繋がり」を求めている証拠だと思うからです。
過去の選択は変えられません。
でも、あの時行かなかったからこそ見えている「繋がりの尊さ」が、今の私にはあります。
「行かなくていい」という世間の正論に、心が追いつかなくてもいい。
「行かなかった自分」を少しだけ後悔している今の自分を、私は否定せずに受け入れたいと思います。
これからの「成人式」を自分で作る
失ったチャンスを嘆くだけで終わらせたくはありません。
あの時会えなかった分、これから新しく出会う人や、今SNSの片隅で繋がっている誰かとの縁を、もっと大切に育んでいきたい。
26歳の冬。
遅すぎる成人式の代わりに、私はこれから、自分自身の手で新しい繋がりを探しに行こうと思います。
あの日の選択を「正解」にするのは、これからの私次第だから。
