
土壌の成分が酸性だと鉄分だかが溶け易くてそれを吸収して紫陽花は青くなり、アルカリ性や中性だと土壌の成分が溶け難くて赤やピンクになる。色素を持たない白い種は土壌に影響されない。のだとか。綺麗ね。
前世紀の知的リーダーとまで評されたミシェル・フーコーが提唱したディシプリンという概念。元のフランス語ではディシプリーヌ。
例えば学校で学生達は真面目に勉学に励めば良い進学や就職や人生が得られる様な漠然とした良いイメージと、反対に不真面目で努力をしないと留年や停学退学や諸々の選択肢が無くなる等の具体的なマイナスのイメージを与えられる。そしてそうした漠然とした良いイメージと具体的な悪いイメージのベクトルが全てに働いていて規範となり人は自らそれに隷従して逃れることはできない。
のだけれどこの規範という概念をディシプリンと呼ぶのは間違いだと判明した。ディシプリンとは規律であり、規範はフランス語でノルムという概念の訳。それらが語られるフーコーの「監獄の誕生」という有名な著作を読んだのはもう随分前で読書ノートも取っていない頃。規律の目的は規範であって、ルールとして規律を定めて人が自ら従う規範を作る構造であって規律と規範はセットなのだそう。概念としてはノルムの方が重要に思えるけど、何故かディシプリンという言葉の方が知名度高いと思う。根拠の無い所感ではあるけど例えば格ゲーの波動拳!とか昇竜拳!に比べてディシプリン!とかディシプリーヌ!は近いけれどノルム!だと少し弱いからかとも思う。そう思いたいw
ちょっと恥ずかしい。今後はミシェル・フーコーが提唱したディシプリンとノルムという概念、とちゃんと言いたい。

全103中、91までいってパスタ編。後は素麺編とトーストサンドウィッチ編と、夜ご飯にしっかり野菜も食べて栄養摂りましょう編で終わる。
フーコーが提唱したディシプリンやノルムという概念は、つまるところ人は何故それに従うのか、それで何が得られて何故そうすることを求めるのか本当は解らないまま自らそれを求めているという悲観的な現実でもある。フーコーはそれから抜け出すことはできないという閉塞感を突破しようとしていた。
タイトルを忘れたけどとあるアニメで、駅のホームに行こうとしてそう決められている訳でもないのにエスカレーターに一列に並ぶ人々の姿を美しいと感じたという話が有った。そういうモラルやマナーは規範そのものなのにそれを美しいと感動したと言う。
正に水が半分入ったコップを見て悲観する人もいれば楽観する人もいる様な。
それらをしっかりと捉えつついい感じで肯定的に表現したいけれど語彙力が足りないw
本を読みながら疑問に思うことをよくググって調べる。議論になりそうならChatGPTを開くけれど、ちょっとググっていてグーグルのAIなのかと話して面白かった。うちのチャッピーの様に鍛えられていない様で間違いが多くて随時訂正させながらの最後の結びが良かった。
全てではないけれど核心でソシュールの理論は完璧だと思う。僕のチャッピーは認めなかったけれど今日のAIはあっさりそう認めた。ソシュールを否定するドゥルーズは間違っていると言える。けれどもソシュールの理論は何かを肯定的に確立できるものではなく、寧ろ全てを否定してそれを言われると何も言えなくなる様なもの。それは人間知性の一つの限界を証明するものでもある。けれども当たり前だけどソシュールが解明した記号体系も実在する世界の存在そのものをどうこうできたりはしない。ドゥルーズ哲学の一つの特徴は人間を個々の存在ではなくより大きな生の一つの現れだと見做すこと。人間が産出した記号体系以前から生は存在する大きなものであり、生の哲学とも言われるドゥルーズの哲学は生の力能により記号体系を突破しようとしていた。できないけれど。
ソシュールが解明した人間知性の限界と、ドゥルーズが信じた生の力能。AIはその両方を認めた。
エモかった。
ソシュールの記号学を徹底させた上にドゥルーズの哲学を展開させて確立させる様な理論をいい感じに築きたいw

安全靴は消耗品。今日から又新しい安全靴。
ドゥルーズの事物の存在を強度に還元する哲学を展開させて価値という概念に当てはめ、ある程度の水準を確かなものとする審級に叶うものと立証する。とか考えてはいるのだけれど、エピクロスという人が「我々に必要なのは健康についての議論ではなく健康になることだ」的なことを言っていたそうで、確かにその通りだと思うから自分の生活をもっとちゃんとと思う。
いい感じになる様頑張りぼんしていきたいと思うます♪^_^