ボロロ族の賢者達を讃えたい。 | シマ紙のブログ

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ブラジル奥地だったかの原住民ボロロ族の社会。

東西に流れる大いなるヴェルメーリョ河の左岸にある村。村の中央を通り河に水平に引かれた線は同じボロロ族の中で南のテュガレ族と北のチェラ族に分ける。

ヴェルメーリョ河の遥か上流には彼らの始祖に当たる二人の英雄、テュガレの英雄神である万物の創造主と第二のチェラの英雄神である世界の平定者が住んでおり、彼らの死後清い魂は河上へと向かい英雄と共に生きることになる。

彼らの英雄は彼らの父であり、保護者であり、監視者であり、裁定者であり、守り、導き、最後には安息の地を与える神でもある。

廃り滅びゆく原住民社会の中でそれでも彼らは代々続く民族の習わしに従い、テュガレとしてチェラとしての役目を果たして互いに女や労役を出し合って種族とその村を保ち続けている。

彼らの社会を築いた祖先、その賢者達が世界に秩序をもたらそうといかに壮大な宇宙と英雄の物語を語り取り込んできたことか。

というのは社会人類学者であり哲学者でもあるレヴィ・ストロースの実地調査研究による話し。レヴィ・ストロースは極限までシンプルに表現されている人間の社会、本当の人間の姿を探求して、結局形が違うだけで自分達とさして違いない人間を見た。

ボロロ族の英雄は我々の世界には居ない。けれどもそれと同じ機能を法律や道徳や様々な文化、例えばディズニーとかそんなヒーローやヒロイン達が果たしたりもしている。

日本国憲法第1条なんか何の根拠も無く堂々と人権とは人間が生まれながらに持っているもの、ということにしているしね。そうしないと守られない人達がいて、今もそれによって守られているものは大きい。

ボロロ族の賢者達の功績の様なものだ。




レヴィ・ストロースの言うように世界は人間無しで始まったし人間無しで終わるのだろう。慈悲深いレヴィ・ストロースが結局人間を愛せたのかは分からない。現実的には愛せる人間もいれば愛せない人間もいただろう。発展途上国の街で群がるしつこい物乞いや押し売りには我慢ならないそうだし、裸で暮らす原住民の中で西洋から持ってきた石鹸を手に川で身体を洗おうとすると石鹸を使わせてくれと群がってくる年頃の女達に平静を保つのはとても難しいそうだ。とても人間らしい。

レヴィ・ストロースが探し求めて見出した自分達と変わらない人間とその社会。果てし無い人間の営み、果てし無い虚無。何も変わらない果てし無い生の一端である自分に生の価値を見失いそうになるけれど、人との繋がりが生の実感を留めてくれる。この時代のこの世界で一緒に生きているということに大きな意義を感じるし、力を与えてくれる。大事に育てた人間関係の力だ。

レヴィ・ストロースに始まるとされるソシュールの構造言語学の分析法を取り入れた構造主義哲学はそれまでの哲学を刷新した。人間社会の諸制度は自然的基盤に基づくものか取り決めに基づくものか、という命題の答えは後者だと論証されて人間とその社会を完全に解体する脱構築に達したけれど、その結果それまでの様な知識を基礎付ける確かなものは一切確立できなくなった。レヴィ・ストロースは100歳まで生きて2009年に亡くなった。ポスト構造主義に分類される僕が1番好きな哲学者のジル・ドゥルーズは1995年70歳の時に自宅アパートから飛び降りて命を断った。構造主義哲学が台頭してから半世紀以上経ったけれど脱構築の対概念となるべき再構築はまだ確立されていない。

ロマンやね。いつか在野の哲学研究家として自分の哲学を確立させたいよ。

ポロロ族の賢者を讃える話しをしようと思ってちょっと脱線したw

とかく元気に頑張っていこう♪

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