人間と社会についてのとある話し。 | シマ紙のブログ

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(この前突然のにわか雨と強い落雷の直後に見事な虹を見た。)

登山関連の話で、登山道や山小屋、山々一帯を含む国立公園等の整備や管理について、基本的に国は自治体等に丸投げでどこも人手も予算も足りなくてかなり切羽詰まっている、という話をよく見る。
似た様な話はあちこち有るし、僕がそれを目にするのも問題の解決・改善への取り組みの一つで誰かがそれを発信するからだ。
そういう取り組みの一環で社会学者と学識が有り実際に山小屋の管理をしている人とが対談をしていて、その動画を片手間にだけど観た。
対談の内容自体には同意しないけど、問題に取り組む意気込みには敬意を持つ。
だけど幾つか気になった概念や言葉があって、それについて書きたくなった。
セントラルドグマと、クソみたいな社会という言葉と、共有可能性というものについて。

(たまに食べると美味しいね)

セントラルドグマというのは分子生物学の基本原則だそうで、全ての生物は遺伝子(遺伝分子)によって造られるという様なこと。現代では周知の事実でもあるけど、それが分子生物学の分野を超えて遺伝子の自己保存説とか利己的遺伝子論とかに飛躍し、人間を含む全ての生物は遺伝子の乗り物であり、遺伝子はより優れた乗り物を生成してより生き延びようとする、となる。
そして逸脱した進化の結果絶滅したり絶滅危惧種になっている種を例にして、環境に適応する進化や欲が自然であり、そうでないものは快・不快に引き付けられた遺伝子の暴走であり自然からの逸脱だと見なす。
自然と非自然との区別を人と自然ではなく、セントラルドグマへの適合と逸脱で区別し、自然に適応する欲と滅びに向かう逸脱した欲を区別する。
人間の文明、特に消費社会というものは人間中心の非人間化をもたらしていて、人間社会はセントラルドグマの自然から逸脱しており、人間に社会の一つの良い部品(交換可能な良い部品)であることを強制する。そもそも人間が自我を持ったこと自体も逸脱なのだそうで、結局人間は人間社会を必要とし、自然に則るにはもう手遅れなのだそうだ。しかし抵抗することに価値は有り、そうした価値は共有可能であって、理解出来ない手遅れな人達やクソみたいな社会はどうにもならないが、分かる人はよく考えて己を自覚した上で抵抗すべきである。
という様な話し。

(近所の塩レモンラーメン。塩レモンのラーメンかと思っていたけど、塩ラーメンにレモンを入れたものだった。)

考え方は人其々だけど、学者が学識をかざして他人を人として手遅れだとか社会はクソですとか言い切ってしまうのは頂けない。
ドゥルーズの名前までちょこっと出して持説の援用にしていたけど、セントラルドグマを基本原則として哲学にまで持ち込むことはドゥルーズの哲学と完全に矛盾する。
セントラルドグマは分子生物学でそこから離れてはいけない原則であって、一般的にはただの物理現象や運動に過ぎないとも言える。そこから利己的遺伝子論になるのは論理の飛躍であって、遺伝子にとって生物は乗り物というのは、遺伝子にとって生物は乗り物の様に見えるという人間の感想であり、遺伝子自体がその様な意図を持つ訳ではない。
結果として人が死んでも遺伝子が次世代に運ばれるのは事実だけど、それはただの一つの事実に過ぎないし、子を産むまでのいきさつは遺伝子が決めるのではなく人間の意思で決まることであって、子供を産んだならその結果として遺伝子も後世に残すことになるだけだ。
人間の自我を人間存在の主であり中心であり本質だとする様な前時代的な人間中心主義に同意はしないけど、自我の代わりに遺伝子をそこに置くのも間違いだと言える。
そもそも遺伝子を持たない人間は存在しないし、人間ではない人間の遺伝子も存在しない。人間と人間の遺伝子を本質的に別のものとして扱うのが間違いだ。

(ネオ無職、酒テロクリエイターと自称するYouTuberの酒村ゆっけさんがアーチストデビュー記念ライブツアーで大阪に来るので行って来た。)

(あの目立つ建物の麓ら辺が目的地で分かり易い。)

(ライブハウスシャングリラ。キャパは密集させたら4-500人位で、時世的に2-300人位かな)

現代哲学において人間存在に主体性は認められない。間主観性とか様々な議論があって定まっていないのが実状の様だ。僕の好きなドゥルーズにおいては完全に本質的な主体など存在しないし、寧ろ分子生物学を援用して有機質に成る分子と無機質に成る分子を本質的には区別しない。より長く存在するという意味で生を善しとし死を悪しとするのも、自然の一部である生物界に当て嵌まる苦を避け快を求める基本原則への人間の感想に過ぎない。
価値の根拠を自然本来性に求めるのが間違いだ。

(医療専門学校なのだとか。このスケール、こういう建築物、都会だなと思う。)

(ライブは開場が18:30、17時頃に先行物販開始でこの時まだ午前10時頃)

自然保護は基本的に消費に還元されるものではないし、快・不快を追求する消費社会を否定して環境保護を求めるべき自然的欲求ということにすると国立公園や山小屋の整備や管理には望ましいのだろうけれど、下手に人としてそうすべきとか言い出すのは根拠の無い所感だ。

(TikTokで「耳で聴く美術館」という人?をフォローしていて、その若くて綺麗で声の透き通るアビさんという人がGWにオススメの美術館の一つとして紹介していた展示を観に来た。)

社会に問題は有り溢れているけど、価値有るものも有り溢れている。個人ではどうにもならないことを社会が有るからこそ何とかなっている事は数限りなく多い。
でも社会というのは自然本来的に人に与えられたものではなくて、ひしめき合う利害関係の中で何とか人が作ってきたものだ。
その上、社会は誰のものでもないし、誰かに与えられるものでもない。その社会にいる一人一人の総体が社会なのであって、利害関係に反してまで人を助けないのはお互い様だ。

(撮影可だそうで驚き。逆さになった人、分かる?
)
(不自然で自然なキノコ)

(バッグ!)

(謎の壁)

(謎の壁紙その2)

(絵画)
(その2)
(その3)
(コロナで外出出来ない時にインスピレーションで旅をするデッサン。これは大阪。)
(NYのセントラルパーク。)

(謎の壁その3。実は謎の壁0を押して動かすと1を動かせる様になり、2、3と動かせて空間と通路が出来る。)
(青い絵画)
(青い絵画。誰もが何処か共通して持つ様な原風景を探求しているのだとか。)
(味わい深いユニークな鳥。)

(ここが大好きだ)
(この空間にハマった。)
(壁に並んで掲げられているのは絵で、絵から絵へと線の集合から点の集合へと拡大又は点から線への縮小の様な絵達。)
(壁に沿って何度も空間を周った。空間に何かを見い出せそうで。)
(係員を見い出してはいたけど、気恥ずかしさより好奇心が勝って、拡大へ、縮小へと何度も歩き周った。)
(この人良いね。アビさんのTikTokのライブで報告したらこの人の有名な鹿の作品を教えてくれたけど、僕はこの空間が特別に好きらしい。)

(緑の絵画)
(優し気な光)

(最初の方の吊り下がったバッグを巻き上げ下げし終えると、実は何かが連動して動いているとだけ教えられる。繋がっているこのバッグを発見した。)

(他にもいろいろあったけど、白い部屋最高。これとは別の展示も観たけどそちらは普通に原則撮影禁止。面白かった。)

共有可能性というものには賛成する。しかし、硬直した価値観しか持っていない絶対に共有不可能な人達を設けるのは否定する。人はその人が変わろうと望めば変われる。変わらないのは望んではいないからで、大抵問題を起こす人は自分を変えようとは望まない人だから問題を起こす。
でも社会レベルでどうこう言うなら社会にとって良いと言えるものを良いと言える仕方で求めなければ説得力は無い。
悪戯に環境保護と消費文化を対立させても助けないのはお互い様で済んでしまう話しにもなる。
例えば山に全く興味の無い人は山の保護にさしたる価値を認めないし、オリンピックに全く興味の無い人はオリンピックにさしたる価値を認めないから。
互いに迷惑をかけないなら助けないのは責められることではない。

(美術館のレストランで展示とコラボしたドリアを。ちょっと写真と異なるビシュアルだけど美味しかった。)

(カフェで読書をして時間を過ごそうと。)
(ネルドリップで美味しかった。しかし割と席が少なくて客足が多いので長いせずに出た。)

(ツインタワー!正式名称は梅田スカイビルだったか。)
(ライブハウスを見下ろす。)
(登っている様に見えて下っている天空のエスカレーター。)
(綺麗だし凛々しいね。有料の空中庭園はパスしたけれどなかなか良かった。)

クソと言うのも分からない訳ではないけれど、根拠が弱いし決して好ましい表現じゃない。
社会が良くないのを間違っている人達のせいにして、自分が考えている正しいことに協力しない人達にも怒っている様な、そんな印象を受けた。
僕は山が好きな方だし、環境保護に賛成で、自分が登山をする時は目に付くゴミは拾って帰るし、極微力だけど消費以外でも出費はする。
いつか行ってみたい山小屋主催の動画だったから、活動は頑張ってほしいけれど残念に思った。

物販全部買い♪
対バンのゆっけさんと仲の良いmoshimoというバンド。ラスト2曲だけ撮影可になった。
良かった!この後ゆっけさん登場。かんぱーい!

夜も更けて。
もうちょっと楽しみたい。
せっかく大阪だからたこ焼きで一杯。おいしー!


とても楽しかった♪
^_^