きのう深夜というか今日早朝というか『バベル』がテレビでやっていて公開時に豊田の劇場で観たけど今回は斜め見というかいい加減にところどころ観た。凛子さんの「バケモノ見せたる」のくだりがマダム・エドワルダの蛸のくだりを思い起こさせた。やはり何かヨーロッパ・アメリカ的なカルチャーを日本に投射している感はぬぐえなかったが、凛子さんの「愛」を渇望する想いは他人ごとではない。先程俳優の高倉健さんが亡くなったというニュースをテレビで観た。いくつか印象的な言葉があった。健さんの言った「自由は孤独と背中合わせ」「愛の反対は憎しみではなく無関心。愛するということは関心を持つということ」著書のタイトル「あなたに褒められたくて」だ。たとえば芸人は受けると嬉しいだろう。それは何故か。根源には子供の頃教室や家庭で誰かを笑わせた喜びのようなものがあるのだろう。これは一種のサービス精神のようなものなのか?こころを込めたプレゼントが喜んでもらえる嬉しさのようなもの。その前に「孤独」や「寂しさ」があったのだろうか。「愛されたいなあ!」というつぶやきや叫びが。旨いものを食べたいように、空腹を満たすように人は愛を求めるのだろうか。「マズローのナントカ説」というのがあって下の方には食欲や性欲や睡眠欲があって上の方には自己実現欲求とか自己承認欲求とかがあり階層構造になっているというもの。人はまず下の欲求を満たしたがり、それが満たされると欲求は上位の欲求へと移動していく。下層の欲求をエスカレートさせるとか下層に留まるとか地下に潜行するとかもあるかもしれないが。「愛されたい」「認められたい」という欲求。よく「かまってちゃん」とか「ちやほやされたい」とか「ドーダ理論」とかいうがこれらもこれらの一種だろう。「孤独」「ひとりぼっち」「ぼっち」これらはしばしばネガティブに語られ認識される。「ぼっちキャラ」を売りにするというのもあるかもしれないが「孤独」の苦味、悲しみは確かにあると思う。そしてひとは寂しくてあれこれ行動したり工夫を凝らしたりするのである。しかしそれは半面「不自由」な事かもしれない。誰かの、集団の、組織の、みんなの、趣味やルールにすりよることでもあるからだ。「俺は我が道を行くよ」「やりたいことしかやらないよ」それは自由かもしれないが大変な孤独を背負いこむことになるかもしれない。しかしそんな「自由人」も「愛」を求める。「僕は僕のままでどこまで届くだろう」という歌詞がスピッツの曲の歌詞の中にあったけど……自分は自分のままで、あなたに愛されたい。「愛」と「性」。マズローの階層の上層と下層は無関係とは思えない。クラインの壺ばりの構造でアクロバティックに結びついているのだろうか。芸人が観客に投げかける。思いっきりスベる。トーナメントの決勝で?教室の隅で?誰もいない砂漠で?