朝まで生テレビを途中から少し見た。ブラック企業がテーマだった。「ブラック企業」において、がんがん追い込まれ退職や自殺に追い込まれた場合、やられたほうにも問題があるというのはいじめ問題で「いじめられるほうにも問題がある」と言うのと同じだ。という話が出た。たとえば交通事故にあった場合、こちらに過失がなくてもその場にいなければ事故に遭わなかった。という理屈は成り立つ。その場合、事故にあった原因はこちらにもある。とは言い得る。しかしその原因とは過失とか欠落とか責任とか問題とはまた違う。たとえば竜巻の被害にあった場合、そこに住んでいなければそんな事にはならなかった。という論理は成り立つ。しかしそこに住んでいた事が過失なのか欠落なのか責任を問われるような自体なのか問題なのかといえばまた違う。「仕事が出来ない事」「仕事上のミス」は過失なのか、問題なのか、欠落なのか。「上司が部下に厳しく接する」「過酷な業務を課す」という事態があったとしてそれはその人を「成長させようとして」なのか「壊そうとして」なのか。「善意」なのか「悪意」なのか。上司の「内面」が問われるのか。しかし「効果」として「結果」として意図と反対に出る事はあるだろう。壊そうとしたら成長してしまった。とか、育てようとしたら壊してしまったとか。すると「指導されるほう」の問題なのか。どんな理不尽な非人権的な無茶苦茶な事をされても「壊れるほうが悪い」のか「死ぬほうが悪い」のか。たとえば通り魔事件で殺された人がいるとする。その被害者が異常な身体能力を持っていたら刃物をかわせたはずだから異常な身体能力を持っていない被害者が悪いと言えるだろうか。予知能力を持っていないのが悪いと言えるだろうか。運が悪いのが悪いと言えるだろうか。「原因」と「過失」は切り離して考えるべきである。そして「原因」はひとつではない。上司が部下を壊したいと思って指導する場合、会社を育てたい、と思っているかもしれない。ブラック企業ではない企業でも過酷な要求や部下を壊そうとする上司はいるかもしれない。「内心どう思っているか」とか「結果育ったとか壊れた」とは別に「線引き」は必要だろう。ケースバイケースとか両者の関係性とか色々あるだろうが。そうするとブラック企業問題、いじめ問題、だけでなく学校や家庭での教育問題、夫婦問題、家族問題、あらゆる人間関係、あらゆる関係のすべてに共通する気がしてくる。行為Aが結果Bをひきおこす保証は無い。だからといってルールが無用なわけじゃない。愛情や善意が無意味なわけじゃない。自分のため会社のため部下のため家族のため未来のため夢のため人類のため世界平和のため地球環境のため動物や植物や虫のため、人が動く動機は様々である。しかしその「動機」や「欲望」を批判的に検証することも必要であろう。あと、番組の中で「会社をやめる能力を持つべき」というのは、なるほどな、と思った。「ゲームを降りる自由」というのは、いつも頭のどこかにおいておいたほうがいいかもしれない。人生を自分から狭くしてしまうから。
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