ここに興味深い文章がある。『1968』という本の中にある「「芸術」なるもの、「美術」なるもの」という文章である。元々「アート」という言葉は「生存の技術」というような意味の言葉であるという。それは我々が思い描く「芸術」という言葉からイメージするものとは少々掛け離れている。1950年代1960年代と我が国では「美術」という言葉と「芸術」という言葉の使い方で混同があったという。当時日本で盛り上がったという「反芸術」の波。「反芸術的芸術」の盛り上がりである。ダダ、シュール、ピカソ、ポロックなどが一気に流れ込み、サルトルの小説や哲学が流行ったという。しかしそこで「反抗」していたのは「芸術」ではなく「美術」であるという。「美術」とはいわば「生活」を「生存」を心地良く保ったり改良する技術のことであり、「芸術」とは死を逃れられない人間の絶望的悲劇性を根拠にした表現だという。それは神秘主義的、宗教的、秘教的な色彩を帯び、「絶対性」「超越性」「至高性」への人間の渇望が表現されている。しかしそこには落とし穴があるという。「絶対的な理想」は人間を自滅させ他者を世界を殲滅させてしまうという。それへの反省、批判が1950年代ヨーロッパでは起こっていた。しかし日本ではそのような観点は輸入されずもっぱら「反芸術」という名の「反美術」で結局「芸術」で盛り上がっていたという。「芸術」というのはいわば「人気的余りに人間的」な振る舞いであり、それは乗り越えられるべきものだという。しかし人間特有の「陰欝さ」はカブトムシにとってのカブトムシの角のようなものであり(前方(未来)に向けて伸び、異様な形に拡がっている!)避けられないものだともいう。近年、「芸術」という言葉が嫌われ、みな「アートアート」と言う。それは「芸術」が意味する「人間の絶望、悲劇性から生まれる絶対性、理想性への希望」というものへの拒絶反応があるのではないかとのこと。要するに「陰気さ」「大袈裟さ」「重苦しさ」のようなものが嫌われているのであろう。そして「アート」へ。散歩するように物を作ること。生活と見分けのつかない「人間」の創造。しかし妙に明るく軽くオシャレになってしまった「アート」に何か物足りなさも感じる。ピカソやポロックの「不可能性の栄光」に魅惑されたような「人間的」な作品。そこに「可能性」は無いのか?どうであろうか。