「欲望」や「享楽」や「美」が「贅沢」や「浪費」といったところか。ハイデガーが嫌った「パーティーの虚しさ」が「消費」のような感じか。國分さんは現在の消費社会への違和感を表明していた。しかしそれが「ロハス」や「有機農業」になっちゃうのはつまらないと言っていた。欲望をガンガン追求するような、もっと「楽しい」方向じゃないとダメだと。すると「楽しい」とか「快楽」「快」」と「消費」「退屈」は違うということか。しかし公開授業の始めで「ハイデガーはパーティーの楽しさを理解できなかったのではないか」と言っていた。「楽しむためには訓練が必要」とも。どんなことでも訓練が必要だ。つまらないと思っていたテレビもくだらないと思っていた漫画も退屈だと思っていた音楽もまずいと思っていた料理も嫌いだったスポーツもわからなかった勉強も芸術も日々触れているうちにおもしろさ、楽しさが「わかる」ようになっていく。それは「退屈な消費」とは違うということだろうか。「退屈な消費」「消費の退屈さ」というと何かに躍らされている感じなのだろうか。マインドコントロールとか管理とか同調圧力とかそんなイメージか。なにか流されて好きでもないのにやってみたり満足してないのに満足しているかのように振る舞ったり、そしてそんな自分に自分の心を寄り添わせて一体化し納得、安心、安住していまうような。「快」や「快楽」「楽しさ」はもっと「自由」な感じなのだろうか。最後フーコーの「快楽」とドゥルーズの「欲望」を対比させていた。「美」や「享楽」はニーチェの「苦しむことの快楽」でありドゥルーズの「欲望」あろうか。「人間であることを楽しむこと」=「贅沢」と配られた紙の始めに書かれていた。すると「贅沢」=「快」「快楽」「楽しみ」か。「動物化」「美」「欲望」「対象への没入」「非主体化」といったところか。人間とは複数の環世界を行き来するものだそうだ。それは複数の主体を行き来する「人間」であることの「人間らしい楽しみ」「人間であることを楽しむこと」を肯定することが「贅沢」であり「快」であり「快楽」か。「快楽」という「不純」で「中途半端」な、そしてそれゆえに「リアル」なものをバルトのようにフーコーのように肯定する道とニーチェやドゥルーズのように苛酷な言語化不可能な非現実的非社会的非経験的非主体的非人間的な「美」や「欲望」の道を行くか。その道は複数の主体、複数の環世界が「縮減」された動物的な世界。主体の消滅。