12年前に出た時、難しくて途中で挫折した東浩紀の『存在論的郵便的』を40歳になった今年再び読み始めた。100ページぐらいまで来た。始めの方とか忘れていて戻って読んだりしている。哲学系の本を見ると「不可能なもの」というのが良く出てくる。良く知らないがバタイユとかブランショとかよく言うような。フランス系の何かなのか。ベケットにも「語りえぬもの」というようなものがあったか。「思考不可能なもの」とかいうものにはずっと以前からとても惹かれていた。この本では「秩序」や「構造」、「システム」や「体系」への嫌悪やそこからの脱出の方法としての「脱構築」をふたつに分けている。ゲーデル的脱構築と後期デリダ的脱構築だ。前者は構造の形式性を極限まで推し進め、自己矛盾に落とし込み自壊させ「不可能なもの」を見出だす戦略、後者は「真理」にしろ「不可能なもの」にしろその「伝達経路」、その「不完全性」「脆弱性」に注目し、真理や不可能なものが「届かないかもしれない」「届かなかったかもしれない」という可能性を導入し「不可能なもの」を複数化し偶然性に曝す。前者は見出だされた唯一の「不可能なもの」を中心にして安定的な構造を構成してしまうという。そうなると嫌悪し抵抗し脱出を計ったはずの「真理を中心とした構造」と似たものになってしまう。そのような事態を「否定神学的」というようだ。「秩序」や「構造」を嫌悪し反抗し脱出したはずが、似た「組織」、より縛りのきつい階層のきつい別の「構造」を形成してしまうのは世間的にもよく見る光景な気もする。見出だされた「新鮮」な「不可能なもの」はあっという間に腐り果ててしまうのだ。常に移動させ分裂させ揺り動かし続けねばならないような繊細な生き物、それが「不可能なもの」なのであろう。唯一の実体として神秘化、超越化することなく「不可能なもの」と共にあり続けること、戯れ続けること、自分のものにすることは可能なのだろうか。よくわからないが失敗すると個人的には発狂、国家的にはファシズムとかになるのだろうか。「構造」の外に出る、脱中心化する、思考不可能なものに触れるために四苦八苦して来た人類の歴史があるのだろうか。時代の行き詰まりや閉塞感が人類を覆って久しいのだろうか。私自身としては「不可能なもの」に「直接的に触れる」というような思想に長らく魅惑されて来た。デリダは「直接性」ではなく「媒介(エクリチュール)」に着目したようだ。年内には読み切りたい