ツイッターに自由とは何かみたいなつぶやきがあり、それが刺激となり少し考えてみたい。例えばごく単純に自由とは何か不自由とは何かと考える。どこかの場所に閉じ込められている、監禁されている、例えば刑務所、例えば地下室、例えば棺桶のような狭い空間。右へ10センチ左へ10センチ前へ10センチ後ろへ10センチしか移動できない。これは随分と不自由な感じだ。あと例えば、火星の表面のような場所、界王様やバブルス君のいない界王星のような場所、無限に広い砂漠のような場所に3日分の水と食料を持たされて送り込まれたらどうか。これはまず何日かで死ぬという死刑のようなもの、その空間のどこかに食べられるものが微かにあったとして命をながらえさせることが出来たとしても拷問のように感じられる。死ぬまでとても美味い水や食料が支給されたとしても。『自由に』メニューの中から食料が選べたとしても。ここに「自由」という言葉が登場した。毎日毎日とてつもなく美味い料理が供給されるというのと、メニューの中から「選べる」というもの。「選べる」というのが自由なのか。しかし例えばそのメニューが3品だったらどうか。あるいは3000万種類から選べるが、違いが米粒の数だったり微妙な肉の焼き具合だったり野菜の鮮度だったり器の色やデザインだったり味噌汁の温度だったりしたらどうか。あるいはほとんど品切れだったり。つまり「メニュー」の幅や広さや深さがとてつもなく限定されている場合。それともうひとつ、その「メニュー」を見る人の視点が「貧しい」場合。つまり食べ物の種類を知らな過ぎたらどうか。例えば水とパンしか知らなかったらどうか。どんなに想像力を働かせても甘いパンや塩辛いパンや甘い水や温かい水しか想像できなかったら。食べ物に関する知識がまったく無く、メニューが10品だったら自由を感じるかもしれない。あるいは想像力。食べ物に関する知識がまったく無くても神のごとき想像力があったらどうか。一兆メニューがあっても不自由だろう。自分自身で開発したいと思うだろう。巨大な世界へ旅に出て見知らぬ新しい食材に新しい味に巡り会いたいと思うだろう。ここまでは食べ物のメニューの話だ。空間の話。無限に広い砂漠のような場所、火星の表面のような場所で『自由に』動き回れるとして人は「自由」なのだろうか。棺桶の中よりは自由かもしれない。しかし景色がまったく変わらず、風も吹かず、砂煙りも上がらず、植物も動物も人間も無ければ。