箴言とソロモン
聖書を読み解くのに理屈をこねるとよく思われないことが多い。
その理由は多数の信仰のあついクリスチャンは理屈を通さないで信仰を持つようになったからだ。
彼らのほとんどは論理を通すことをしない。
その正当化としてイエス様は無学のものを多く救ったからだという。
多くの信仰のあついクリスチャンは聖書の聖句を丸暗記することに力を尽くす。
その吟味には関心は薄く盲目の信仰に近い。彼らはただ主に依拠して生活する人々が
多い。パウロのように権威にしたがって生きていく人が多い。
パウロが全ての権威はそれがよかろうが悪かろうが神様から与えられている
などというものだからそれを信じて権威が部分的に悪くてもそれを第二の生活基準としている。
大抵はそれでいいのだがすべち良いかというかというとそうではない。
それは聖書を(物理的)論理だけを持って読み解こうとする人々には非クリスチャンが多いこともある。
彼らは聖書のセントラルメッセージである愛や霊性を無視している。
両者の溝は深い。
実は聖書はそのメッセージを鵜呑みにしろとは言っていない。イエスをとくメッセージが正しいかどうかを旧約聖書で確認
しながら読む人々を褒めてさえいる。
さらに箴言という旧約聖書にある書では
1:1[編集]
ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。
1:2[編集]
これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉をさとらせ、
1:3[編集]
賢い行いと、正義と公正と公平の教訓をうけさせ、
1:5[編集]
賢い者はこれを聞いて学に進み、さとい者は指導を得る。
1:6[編集]
人はこれによって箴言と、たとえと、賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
1:7[編集]
主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
これだけでは一般の書と変わりがないように見えるが震源は
ソロモンが神への祈りの結果与えられた知恵に基づいている。
つまり単なる人間の知性が理性で表した書ではないのである。そのはずである。