マルチン・ルターの主張 | 優しさがいちばん

マルチン・ルターの主張

プロテスタントのきっかけとなったマルチン・ルターの

理解はどんなものだったのだろう?

一部転載:

1506年には司祭の叙階を受けたが、ルターはどれだけ熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても心の平安が得られないと感じていた。また、ヴィッテンベルク大学で哲学と神学の講座を受け持っていたが、神を理性で捉えることは困難であるという理解に達することになる。

ルターは、いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義(正しいもの)であると確実に言うことはできないという現実に苦しみ続けた。しかし、人間は善行でなく、「信仰によってのみ義とされる」(すべて神の恵みである)という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。

 

本当にそうだろうか?

イエス・キリストへの信仰があってもなおかつ自分のこころは罪から

のがれれねない。ルターは善行には欺瞞から抜け出せないことを見抜いていたので

救済の完成に疑問を抱いていた。

それゆえ、結果と無関係な信仰によって救われるが救われたいとなり

願望となったものが主張になってしまったのはないか?

 

新約聖書によれば本当は善行は信仰のあらわれとなるはずが

そうなっていない。

 

その原因を追求しなければいけない。