パウロと主イエスとの違い | 優しさがいちばん

パウロと主イエスとの違い


ーイエスの直弟子の教えとパウロ神学ー


パウロと主イエスの言葉は矛盾していると書いたが、

(1月28日)

ペテロはパウロをみとめているではないかという指摘があった。

第二ペテロ三章13:15

3:15また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。 3:16彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。 3:17愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。


ペテロはパウロを支持していて他の使徒たちが(旧約)聖書を無理な解釈をしているという。どの部分についていっているのかはこれからでは明らかでないが、おそらく律法に関する解釈であろう。

パウロはロマ書7:12-24のなかで心は正しくての肉体の悪に支配されているのが現実でそれはしかたのないことだといっている。


「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」



これに対して主イエスはどういっているか?

「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7・20~22、マタイ15・18~20)


パウロとは逆に心に悪が宿るのが罪の原因なのだといっている。この人間の罪に関する主イエスの見解とパウロの見解の違いはパウロを非イエス的だといって新約聖書から退けるほどに深刻なものだろうか? それが深刻なものであるという主張は以下のようなものである。


http://homepage2.nifty.com/elienay/index27.html

本当は人間の肉そのものには、善も悪もない。イエス・キリストの教えは、パウロと逆なのである。肉は、それ自体で勝手に善を行ったり悪を行ったりしない。人間の心が、その肉に善や悪を行わせるのである。自分の肉に勝てない者が、どうしてサタンに勝つことができようか。罪に、悪に勝てない者が、どうしてイエス・キリストに贖われようか。

 人間の心は、肉に勝てない弱いものだと開き直ってしまうことは、人間を単なる肉の塊にすぎない存在に落としめる論理で、それはサタンの狙いどおりにほかならない。人間が肉に従って悪を止められないなら、人間は動物以下の存在だということになる。神は人間を、すべての生けるものを支配する者として創造した。しかしパウロはそれを否定して、人間は罪なる肉に従い、肉にあらがうことができない存在へと落としめた。そのような肉欲のままに生きる動物以下の存在が、イエス・キリストによって贖われる道理は、ない。それではキリスト教徒は、ソドム・ゴモラの住人と何ら変わらない。それは滅びるべき存在である。そのような人間は滅びなければ、動物や自然も大迷惑をこうむる。

 パウロは自分の心は善だとして正当化し、悪いのは肉だと責任を転化して、悪を正当化している。それは、サタンの言い分である。パウロの肉が罪を行うのは、パウロの心が肉にそれを行わせているのにほかならない。肉が勝手に罪を行うことはない。ゆえにパウロは、肉も心もサタンに従っているのである。そして、どうしようもない自分の救いをイエス・キリストの十字架に求めている。これは福音書に登場する悪霊が、自分の悪をそのままにしておきながらイエス・キリストに対して「何者であるか知っている」と告白しているのとまったく同じである。

こうして、パウロに従うキリスト教会は悪霊の巣窟となり、クリスチャンは悪霊に支配されている。パウロの「まやかし」を受け入れるならば、洗礼さえ意味をなさない。なぜなら、肉を水で浸しても清まる道理はなく、肉はいつまでたっても罪に支配されたままだからである。パウロ自身が、そうなのだから。

 では、心は清めることができるのか。清めることができる。そうでなければ贖いは成立しない。ただし、それができるのは主のみである。主が清めてくださらなければ、人間の心は清まらない。そして、心を清めようとしない人間を、主が清めてくださることはない。教会の教義や洗礼で、罪や心が清まるのではない。心が清まらないならば、教会に意味はなく、教会に通ってはいても実はクリスチャンですら、ない。


 ヤコブ書(ヤコブの手紙)は、世の友となることは神の敵になることだと教えている。しかし、パウロと彼に従うクリスチャンは世を愛し、ローマ帝国と一体になり、世の権力を手にする道を選んだ。それは神の敵となったということである。

確かにパウロに従ったローマンカトリックは悪の限りを尽くして、これに従わないものを異端者として虐殺しその総数は数千万人に上るともいわれる。

さらにパウロに同意するならば人は罪を許され救われても生きている限り(肉体をもつかぎり)罪深いものであるという意識は残ってしまう。おおくの教会の信徒はそのようになっている。カソリックでもプロテスタントでもそうである。救われても罪深い性質は残る。その事実をパウロの神学はうまく説明できているのだ。だからこそ新約聖書でもパウロの書簡は重要視されているのだ。


ペテロは上の論理に気づいていたのだろうか。ペテロはパウロが信徒の間(おそらく十二弟子とそれにつづくものたち)に受け入れられない教義を語っていることは十分承知していた。罪の根元が心にあるか肉にあるかの問題の議論ではなかったのではないか?

というのはもうひとつ主イエスとパウロの間の教えに違いがあるのだ。

それは律法に対する考え方である。

パウロは旧約時代のレビ記などの律法は廃れてあたらしい心の律法に変わったと主張する。それに対して主イエスは律法は廃れておらずそれどころか律法を完成するために来たといわれる。ところが主イエスの行動をみると形式的には律法を無視した言動の行動がたびたびある。主イエスが律法を完成するためにきたといいながらパリサイ女たちからいわせると律法をやぶっている(安息日を守らないなど)。主イエスは律法の寄ってくるところの大元は愛だからだというのだ。愛に根ざした行動なら形式的な律法は破りうるというのが主イエスの教えだ。これはパウロの主張を一致している。ペテロ第二の手紙ではこのことをいっていたのではないか?ペテロはパウロがこの点では正しい事もあるといいたかったのではないか。ペテロは状況判断があまかったのではないか

十二弟子たちの教会がローマによって消滅させられたのはペテロのそのような甘さにも原因があったのではないか? それで主イエスの直弟子による教えの大部分は消滅してしまったのではないか。一部は地下活動で残ったのかもしれないが詳細は不明だ。