祈れば叶えられる?
聖書をつかって、特定の主張をすることは可能である。
たとえばイスラムの神学者が新約聖書からイエスはメシアではなく予言者であったと
いう証拠を新約聖書から主張できる。
そういうことが可能であることは東康男牧師はよくしっていた。
そしてそれは彼自身の主張にもあてはまることである。
さて、聖霊のバプテイズマを論じるときに
同様のことがいえる。と思っている人がおおい。
伝統を重んじる教会では
聖霊の洗礼は水の洗礼をうけたときに受けるという人が多い。
その理由の第一:ひとは自己満足しやすい。
イエスキリストによって救われたのにそれ以上なにを望むのか?
私には聖霊の洗礼は必要がない。
すでに与え荒れているのだから。
といっても、その根拠は弱い。せいぜい、水のバプテイズマをうけるときに
聖霊が関与していたというにすぎない。
本当はパウロがいっていたように、”かれらは聖霊をうけたのか”、
あるいは聖霊のバプテイズマにはあきらかなしるしがともなうのに
それは自分の信仰、水のバプテイズマで救われた、と合致しないので
余計なことは考えない。
いまの自分で充分なのだからと。
そういいながら、かなわぬ祈りを繰り返し
凡庸でステレオタイプな聖書勉強を継続している。
聖霊のバプテイズマをうけつけるには
畏れがあるのだ。
聖書になんとかいてあるか、どうよむかではない。
おまけに、
聖霊のバプテイズマをセントラルメッセージにしている
アセンブリー派は評判が芳しくない。
韓国のチョーヨンギさん本人の女性スキャンダルはひろくいきわたっている。
知り合いが援助していたアセンブリー派の牧師も問題を起こしていたというし
わたしのしっているアセンブリー派の牧師も
世俗的すぎて人格にも問題がある。
このように神学的な主張は聖書にそっているのに、
現実は逆の生活をしているひとたちが多い。
聖霊はもともとイエスが私たちの助け手として
約束をしたものだがこれが逆目にでている例がおおいのが
現状だ。
それに、聖霊のバプテイズマを望み祈ってもなかなか
実現しないという超難問がある。
願えば叶うとあるのに叶わない。
信者はかならず叶う、しかし
その時は神様が決めるという。
その時はわからない。
いつ実行されるか日時指定のない約束が約束といえるだろうか。
たとえばイスラムの神学者が新約聖書からイエスはメシアではなく予言者であったと
いう証拠を新約聖書から主張できる。
そういうことが可能であることは東康男牧師はよくしっていた。
そしてそれは彼自身の主張にもあてはまることである。
さて、聖霊のバプテイズマを論じるときに
同様のことがいえる。と思っている人がおおい。
伝統を重んじる教会では
聖霊の洗礼は水の洗礼をうけたときに受けるという人が多い。
その理由の第一:ひとは自己満足しやすい。
イエスキリストによって救われたのにそれ以上なにを望むのか?
私には聖霊の洗礼は必要がない。
すでに与え荒れているのだから。
といっても、その根拠は弱い。せいぜい、水のバプテイズマをうけるときに
聖霊が関与していたというにすぎない。
本当はパウロがいっていたように、”かれらは聖霊をうけたのか”、
あるいは聖霊のバプテイズマにはあきらかなしるしがともなうのに
それは自分の信仰、水のバプテイズマで救われた、と合致しないので
余計なことは考えない。
いまの自分で充分なのだからと。
そういいながら、かなわぬ祈りを繰り返し
凡庸でステレオタイプな聖書勉強を継続している。
聖霊のバプテイズマをうけつけるには
畏れがあるのだ。
聖書になんとかいてあるか、どうよむかではない。
おまけに、
聖霊のバプテイズマをセントラルメッセージにしている
アセンブリー派は評判が芳しくない。
韓国のチョーヨンギさん本人の女性スキャンダルはひろくいきわたっている。
知り合いが援助していたアセンブリー派の牧師も問題を起こしていたというし
わたしのしっているアセンブリー派の牧師も
世俗的すぎて人格にも問題がある。
このように神学的な主張は聖書にそっているのに、
現実は逆の生活をしているひとたちが多い。
聖霊はもともとイエスが私たちの助け手として
約束をしたものだがこれが逆目にでている例がおおいのが
現状だ。
それに、聖霊のバプテイズマを望み祈ってもなかなか
実現しないという超難問がある。
願えば叶うとあるのに叶わない。
信者はかならず叶う、しかし
その時は神様が決めるという。
その時はわからない。
いつ実行されるか日時指定のない約束が約束といえるだろうか。