東康男さんの教えをいま再考する | 優しさがいちばん

東康男さんの教えをいま再考する

東牧師にはいまから44年前にアメリカの牧師宅にて
按手にて水の洗礼をうけた。
アメリカの研究所からフランスの研究所にいく直前だったので
以後、ときどき彼のテープや本をよむことはあっても
ちゃんと継続的には聖書の勉強はしなかった。
日本に帰ってきても東牧師のおしえとあまりにもかけ離れていたことが
一因だ。
日本の教会はいずれも罪の教会で洗礼を受けた後でも
罪を許してくださいという祈りを継続しているのだ。
完全なる文化ショックであった。
日本の教会では
祈りのしかたがわたしのような罪深いちいさなものでも
という罪の意識から抜け出せないのだ。

それは40年たったいまでも同じだ。
東康男牧師の教えは基本的には聖霊からのおしえであるが
さらにそのおおもとは
ケネスヘーゲンのところで学んだ物だ。
わたしからするとケネスヘーゲンは典型的な南部のアメリカ人で
生理的に受け付けがたいものであった。

東康男牧師の教えはわたしの知る限りではもっとも理屈っぽいもので
よく女性信者がつくものだとおもう。
もっとも彼女らは論理がわかってついているのではなく
直感で受け入れているのだとおもう。
東康男牧師のおしえは理系のわたしにはぴったりとわかるのだが
それにしてもこんなに理屈をとおらなかれば
豊かな祝福をうけられないというのは
祝福をうけられるクリスチャンはこのよのなかに
何十人もいないことだろう。
その理屈が教会の数的な成長をはばんでいることもあるはずだ。
ただしければいいというものではない。
そもそも旧約聖書の時代ユダヤ人が律法によって
おさえられて、その律法によって普及できなかったと思われるが
それもまたわからない。
というのはきびしい律法におさえられながら
信者が増大しているのがイスラム教だからだ。
いま、あきらかにイスラム教はキリスト教をしのぐいきおいで
数の面で成長している。

キリスト教では罪が許されるのは容易であるが、
そのあと、サタンの攻撃がつづき、
現実の世界ではサタンに屈していることが多い。
これを打開するには聖霊の助けてが必要なのだが
現実にはそれが不成功におわっている。