だれがユダの福音書をほおむったか
ユダがイエスの指示にしたがったということは
福音書からたしかであると推察される。
ゲッセマネのイエスの祈りもプロテスタント一般理念も
神の意志がイエスを十字架にかけるものであった。
そしてユダに十字架への道への手伝いをさせた。
ユダの福音書を読んでみないとわからないが
そのなかには人間の知識と知恵を重視して異端と判定されていた
グノーシス主義を反映しているからだという。
そのグノーシス派の追放の先頭をきっていたのが
アグレッシブなエイレナイオスという男だったようだ。
以下一部を転載:
(以下本文コピー)
ところで、今回のチャコス写本が発見される前から、かつて「ユダの福音書」という文書が存在し、その世界観の下に結集したキリスト教徒の集団(とりあえず「ユダ教団」と呼ぶ)があったという推測はされていた。その根拠は、紀元二世紀後半にエイレナイオスが、この「異端端反駁」で「ユダの福音書」に触れているからである。
後に正統派キリスト教となったエイレナイオスが所属する教団から見れば「ユダ教団」は異端であるが、当の「ユダ教団」は自らがイエス・キリストの忠実な使徒で、異端であるという認識はもっていなかったと思われる。では正統派教会はなぜこれほど、グノーシス主義を警戒したのだろうか。
それはキリスト教における学識と救済の関係に理由がある。イエスは大工の息子で知的水準は中の上であったが、類まれな洞察力によって、学識においてはるかに勝るパリサイ派の学者たちを次々と論破していった。イエスにとって重要なことは人間の救済であり、権力や富、そして学識は重要でなかった。
グノーシス主義が救済を真摯に追求していたことは間違いないが、そのためには思索、瞑想が必要だという学識を重視する教義を持っていた。宣教の観点から言えば、知的能力とはまったく関係なく、イエスが定めた洗礼や聖餐(キリストの肉であるパン、血であるワインを飲む儀式)に従えば救済される、というほうが大衆の支持を得やすい。
313年のミラノ勅令でコンスタンチヌス帝が公認して、キリスト教は体制側の宗教となったが、それまでは信者を増やして支持基盤を拡大することが、キリスト教が存続するために必要とされていた。そこで正統派教会は、洗礼と聖餐という原理原則を維持すると同時に学識を重んじるグノーシス主義を厳しく排除しようとしたのである。
ローマに公認された後は、キリスト教神学でも高度な学術的体系が構築されるようになったが、それでも基本的にキリスト教は知識に対する不信が大きい。これはあまり理解されていないが、キリスト教が持つ基本的な性格である。
多元的価値観を認める社会へ
最後にこの「ユダの福音書」がキリスト教世界に与える中長期的な影響について記したい。キリスト教は世界観でも哲学でもなく、イエス・キリストを信じることで救われるとする救済宗教だ。現在のキリスト教で主流の座を占めるカトリック、プロテスタント、正教はいずれも、「ユダの福音書」を手厳しく攻撃したエイレナイオスの流れを引いている、このエイレナイオスの方法論は、キリスト教世界の中で敵と味方の線を引き、敵を殲滅することで問題の解決を図るというものだ。その結果、キリスト教世界は宗教戦争の連続であった。近代になり、戦争の技術が向上したため、絶え間ない宗教戦争が人類の滅亡をもたらす可能性が高まった。
しかしそれは神の意志とおよそかけ離れている。そうした危倶から、キリスト教神学では「寛容」が重要な意味を持つようになった。この寛容を一般思想に翻訳するならば、自由主義が持つ愚行権である。すなわち他者から見れば愚かなことに見えても、その行為が危害を加えない限り、誰もが愚かなことをする権利を持つということだ。幸福追求権と言い換えてもいい。この考え方は、異なる文明、価値観との共存を意味している。東西冷戦に西側が勝利した結果、EU(欧州連合)やNATO(北大西洋条約機構)は旧東欧諸国に拡大した。世界で唯一の超大国となったアメリカは、民主主義と市場原理主義を全世界に広めようとしている。こうした欧米の行動は、自らの価値観で世界を制覇するという一元主義に無意識のうちに支えられている。しかしキリスト教は本来、他の宗教も含めて、多元的な価値観を受けいれる宗教であった。
それを示しているのが「ユダの福音書」なのである。[ユダの福音書」の発見、解読によって、ユダの裏切りはイエス・キリストの救済事業と切り離せず、それはイエスの意志にも反していないことが明らかになった。すなわちユダの存在さえ許容する寛容が、キリスト教の中に含まれていたことを、「ユダの福音書」は示している。
またエイレナイオスのように、自己の正しさを他者に押しつけて、敵を殲滅しようとするキリスト教文化圏の政治倫理に対しても、根源的な見直しがはかられることになるだろう。なぜなら「裏切り」は、ユダに限らずイエスの弟子全員に共通した行為であり、ユダの罪もイエスの弟子に共通している。そしてそれは、イエスの弟子に連なる全キリスト教徒につながるのだ。したがってキリスト教徒は、ユダを敵として非難するのではなく、自らの中にあるイエス・キリストに対する裏切りを悔い改めるべきだ、という倫理が導き出されるからだ。
9.11のテロ事件以降、キリスト教文化圏にある西欧社会と、イスラム文化圏の対立など、異なる価値観が衝突する構図が鮮明に浮かび上がってきた。しかし「ユダの福音書」は、多元的価値観の共存する世界へと欧米社会を転換させる方向に影響を与えるだろう。ただし、それには時間がかかる。
まず「ユダの福音書」のテキストの確定と解釈に、少なくとも十年から二十年が必要とされるはずだ。それがキリスト教と政治倫理の関係を調整する「組織神学」の分野で議論され、一定の方向が出るにはさらに十年から二十年の時間が必要とされる。その方向性が教会の現場に反映されるのは、もっと先のことになるだろう。よって世界に「ユダの福音書」の影響が現れるのは、今世紀半ばになると思う。
しかしこの時点で「ユダの福音書」が発見、解読されたのは、一元主義が神の意志とは異なり、イエス・キリストは多元主義と寛容を説いていたことを改めて示すため、「見えざる手」を神が働かせていたように筆者には思えてならない。
福音書からたしかであると推察される。
ゲッセマネのイエスの祈りもプロテスタント一般理念も
神の意志がイエスを十字架にかけるものであった。
そしてユダに十字架への道への手伝いをさせた。
ユダの福音書を読んでみないとわからないが
そのなかには人間の知識と知恵を重視して異端と判定されていた
グノーシス主義を反映しているからだという。
そのグノーシス派の追放の先頭をきっていたのが
アグレッシブなエイレナイオスという男だったようだ。
以下一部を転載:
(以下本文コピー)
ところで、今回のチャコス写本が発見される前から、かつて「ユダの福音書」という文書が存在し、その世界観の下に結集したキリスト教徒の集団(とりあえず「ユダ教団」と呼ぶ)があったという推測はされていた。その根拠は、紀元二世紀後半にエイレナイオスが、この「異端端反駁」で「ユダの福音書」に触れているからである。
後に正統派キリスト教となったエイレナイオスが所属する教団から見れば「ユダ教団」は異端であるが、当の「ユダ教団」は自らがイエス・キリストの忠実な使徒で、異端であるという認識はもっていなかったと思われる。では正統派教会はなぜこれほど、グノーシス主義を警戒したのだろうか。
それはキリスト教における学識と救済の関係に理由がある。イエスは大工の息子で知的水準は中の上であったが、類まれな洞察力によって、学識においてはるかに勝るパリサイ派の学者たちを次々と論破していった。イエスにとって重要なことは人間の救済であり、権力や富、そして学識は重要でなかった。
グノーシス主義が救済を真摯に追求していたことは間違いないが、そのためには思索、瞑想が必要だという学識を重視する教義を持っていた。宣教の観点から言えば、知的能力とはまったく関係なく、イエスが定めた洗礼や聖餐(キリストの肉であるパン、血であるワインを飲む儀式)に従えば救済される、というほうが大衆の支持を得やすい。
313年のミラノ勅令でコンスタンチヌス帝が公認して、キリスト教は体制側の宗教となったが、それまでは信者を増やして支持基盤を拡大することが、キリスト教が存続するために必要とされていた。そこで正統派教会は、洗礼と聖餐という原理原則を維持すると同時に学識を重んじるグノーシス主義を厳しく排除しようとしたのである。
ローマに公認された後は、キリスト教神学でも高度な学術的体系が構築されるようになったが、それでも基本的にキリスト教は知識に対する不信が大きい。これはあまり理解されていないが、キリスト教が持つ基本的な性格である。
多元的価値観を認める社会へ
最後にこの「ユダの福音書」がキリスト教世界に与える中長期的な影響について記したい。キリスト教は世界観でも哲学でもなく、イエス・キリストを信じることで救われるとする救済宗教だ。現在のキリスト教で主流の座を占めるカトリック、プロテスタント、正教はいずれも、「ユダの福音書」を手厳しく攻撃したエイレナイオスの流れを引いている、このエイレナイオスの方法論は、キリスト教世界の中で敵と味方の線を引き、敵を殲滅することで問題の解決を図るというものだ。その結果、キリスト教世界は宗教戦争の連続であった。近代になり、戦争の技術が向上したため、絶え間ない宗教戦争が人類の滅亡をもたらす可能性が高まった。
しかしそれは神の意志とおよそかけ離れている。そうした危倶から、キリスト教神学では「寛容」が重要な意味を持つようになった。この寛容を一般思想に翻訳するならば、自由主義が持つ愚行権である。すなわち他者から見れば愚かなことに見えても、その行為が危害を加えない限り、誰もが愚かなことをする権利を持つということだ。幸福追求権と言い換えてもいい。この考え方は、異なる文明、価値観との共存を意味している。東西冷戦に西側が勝利した結果、EU(欧州連合)やNATO(北大西洋条約機構)は旧東欧諸国に拡大した。世界で唯一の超大国となったアメリカは、民主主義と市場原理主義を全世界に広めようとしている。こうした欧米の行動は、自らの価値観で世界を制覇するという一元主義に無意識のうちに支えられている。しかしキリスト教は本来、他の宗教も含めて、多元的な価値観を受けいれる宗教であった。
それを示しているのが「ユダの福音書」なのである。[ユダの福音書」の発見、解読によって、ユダの裏切りはイエス・キリストの救済事業と切り離せず、それはイエスの意志にも反していないことが明らかになった。すなわちユダの存在さえ許容する寛容が、キリスト教の中に含まれていたことを、「ユダの福音書」は示している。
またエイレナイオスのように、自己の正しさを他者に押しつけて、敵を殲滅しようとするキリスト教文化圏の政治倫理に対しても、根源的な見直しがはかられることになるだろう。なぜなら「裏切り」は、ユダに限らずイエスの弟子全員に共通した行為であり、ユダの罪もイエスの弟子に共通している。そしてそれは、イエスの弟子に連なる全キリスト教徒につながるのだ。したがってキリスト教徒は、ユダを敵として非難するのではなく、自らの中にあるイエス・キリストに対する裏切りを悔い改めるべきだ、という倫理が導き出されるからだ。
9.11のテロ事件以降、キリスト教文化圏にある西欧社会と、イスラム文化圏の対立など、異なる価値観が衝突する構図が鮮明に浮かび上がってきた。しかし「ユダの福音書」は、多元的価値観の共存する世界へと欧米社会を転換させる方向に影響を与えるだろう。ただし、それには時間がかかる。
まず「ユダの福音書」のテキストの確定と解釈に、少なくとも十年から二十年が必要とされるはずだ。それがキリスト教と政治倫理の関係を調整する「組織神学」の分野で議論され、一定の方向が出るにはさらに十年から二十年の時間が必要とされる。その方向性が教会の現場に反映されるのは、もっと先のことになるだろう。よって世界に「ユダの福音書」の影響が現れるのは、今世紀半ばになると思う。
しかしこの時点で「ユダの福音書」が発見、解読されたのは、一元主義が神の意志とは異なり、イエス・キリストは多元主義と寛容を説いていたことを改めて示すため、「見えざる手」を神が働かせていたように筆者には思えてならない。