自由主義神学
自由主義神学
「(聖書を)歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」。よく聞く宗派のエキュメニカル派も自由主義神学らしい。
個人の理知的判断に従うということは自分で考えて判断するということである。日本人の大半はB層とからかわれているので、実は自分で考えることはほとんどない。まして、日本の教育の伝統はいってみればお上に従うように教え込まれて来た。だからほんとうは個人の理知的判断などといってみたところで仕方が無い。
と同時に宗教全体も同じ構造をもっていて、各宗派の信者は一番トップの教えを疑問を挟むこと無く従うように強制されている。つまりいずれも大差はないのだ、
ただひとつの慰めはこのような権威に従うことを要求されている状況においても若干のはみ出しものは常に存在する。そのようなはみ出しもののなかで自分で物事を考える少数がいるのだ。その少数のなかにさらに物事にとらわれないで考えられるのはまた極少数である。
”自由主義神学は「聖書のインスピレーション」と題する講演で高等批評を擁護し、聖書信仰を否定した” とここまでいうのが目標となるとメインストリームのプロテスタントへの敵対行為となってしまいかねない。プロテスタントはバチカンに従うのではなく聖書に従うべきだということから宗教改革がおき、今日に至っている。近代になって聖書の素正確な記述が明らかになり、聖書中心主義に疑念が挟まれることになった。そのため一部のクリスチャンは信仰の論理的基盤を失うことになった。しかし大部分のクリスチャンは
理屈や論理で信仰を保持している訳ではないため、信仰を保持している事実もあるのである。