苦しみを喜ぶクリスチャン | 優しさがいちばん

苦しみを喜ぶクリスチャン

以下のようなメッセージを長女から貰った:


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大きなことを成しとげるために力を与えてほしいと、
 紙に求めたのに、謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、
 より予期ことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして、富を求めたのに、
 懸命であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
 得意にならないようにと失敗を授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
 あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
 願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
 心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。

私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。

「子どもがあの学校に合格しますように」
「病気がなおりますように」
「あの会社に就職できますように」
と私たちは祈ります。(中略)ところが、実は、「求めること、探すこと、戸を叩くこと」、もたいせつですが、それに答えて与えられるものを謙虚に”いただく心”の方がよりたいせつなのです。(中略)でも、そういう切なさ、辛さこそが、実は人間が成長してゆく上で「本当にたいせつなもの」「必要なもの」だったのだと、いつか必ず気づく日があるものです。(中略)

私のような信仰のうすいものは、物事がスイスイ流れていると、つい何もかも自分でしているかのような錯覚を持ちがちです。
そんな時に「近頃、何か忘れていませんか」と、いろいろの不意な事柄を通して神さまが”メモ”をくださるし、それが結局、祈ることーつまり、人間の分際を弁えた姿勢をとることーにつながってゆくことになります。祈りはかくて、神のために必要なことではなくて、私たちの生きる姿勢として必要なのです。

(渡辺和子著『愛することは許されること』から)
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聖書のセントラルメッセージからはなれているこのような解釈は
少なくなく、とくに日本においては
ほとんどが、このようなメッセージだと思う。

現実に身のまわりにおこっている
沢山の不幸や
世界の不条理からのがれなれないと
このような解釈でそれでも
神の恵みを感謝しようという逆説的な
信仰がうまれてしまうのだ。

イエス誕生から2000年余
そのあいだに
おおくの殉教があり
宗教戦争中にはクリスチャンのあいだでされ
殺し合いや憎悪が満ち満ちて
さらにペストでは80%がなくなうという猖獗をきまめた
クリスチャンの歴史がある。

しかし、ひとは
苦しみのなかに喜びを見いだす事が
本筋ではない。
アメリカのプロテスタントのセントラルメッセージは
現世のなかで、満ち足りた喜びにいきることが。

日本の数少ない教会にもそのような教えをするところがある。
http://www.int-christian-center.org/
にアクセスしてみていただければ
その一端に触れられる。