以前から少し紹介している運否天賦を用いた開運術ですが、そもそも運否天賦とは、「運とは天命である」こと、そこから転じて「運を天に任せる」という意味です。つまりアカシックレコードを端的に示した四字熟語とも言えます。ですが、開運術という件を書いていますので、何らかの術としても使えるという意味です。

昨日は「とらわれる」必要はないということを書いていますが、まさにその通りで、この術は天にその願いを委ねるという技巧を用いています。この開運術は日本と台湾のお話から始まっており、また私自身はオーラや気の専門家から術を教えていただいたという関係もあり、詳細に書くとそれだけでお腹いっぱいになってしまいます。かいつまんで書くと、所謂アカシックレコードの運命決定として記述されている "死" が、この術によって変化していたというお話です。そういう関係もあり基本的には、秘技中の秘技という扱いだそうです。

実は、久しぶりのブログ再会から延々書いてるのは、この開運術の説明だったのです。上記の通り昨日の「とらわれる」必要はないということや、あるいは数日前の「イメージ化」など、全てこの術のエッセンスをかいつまんで書いております。

そしてModulationのI & Oの様に、自分とマッチする理想の状態に移行する、という概念も重要です。運命のイメージでも説明した通り、振動をいきなり大きくしようとしても、それもまた難しいのです。考えてみてください。体操の鉄棒でも、直ぐにいきなり大技発揮ではなく、体を何回か回転させ十分勢いを増してから大技を繰り出します。事実この開運術は、数回やったら終わりではなく、毎日継続して行うことで効果が発揮されるというものです。

つまり、いきなりの大変化という事象に自身がとらわれる必要はなく、徐々にそうなるように天に委ねるという行為が自身の運命変化を同調させることにつながり、結果的にアカシックレコードの運命記述領域へのイメージを用いた変化が生じる、ということになります。
今日は満月。あいにく天気が悪く見えませんが。

月は不思議ですよね。白く見えたり赤く見えたり。冬の透き通った空気から覗く満月の光は、鈍く冷たい眩いばかりの明るさで煌煌と照らし、その光を身に受け取ると焼き尽くされるかの如く熱く感じます。

月の光は真実を照らすとも言います。物に光が当たると陰ができ、光の当たる角度によって千差万別の様相を呈します。ですが、陰を生み出す物は、それ一つです。

穢れとは何であるかという概念が難しく、それぞれの宗教的概念でいえば教義によって異なりますが、月のとの逸話を紹介すれば、月光は穢れを払うというものもあります。その際の穢れとは、人の「とらわれる」様とでも表現するものです。例えばですが、「意地を張るとか」とか、「好きなものは好き・嫌いなものは嫌い」こういうものです。こういう状態はより深みにはまっていき、自分に都合の良い状態のみを選び、都合の悪いものを避ける状態、つまり「とらわれる」わけです。

ですが今日の様に、満月が見えない時もあれば美しいお月様の顔を覗かせる夜空もあるわけで、その一つのみに、とらわれる必要はないと。仏教的言い方であれば諸行無常とでも言うでしょうか。

光から生じた陰は千差万別である様に ”見方や考え方さらに価値観というのは多種多様であり”、それは陰を生じる光の角度によって異なる様に ”1つにとらわれることは無意味である” ということですよね。

故に、月の光は真実を照らし、その道を指し示す助けとなると。小さい時に教わったこの意味を私自身完全に理解してるわけではないですが、強ち間違いでもないかなと思ったりしてます。