・横軸(X)に罪悪感のあるなし
・縦軸(Y)に悪事のするしない
ある(する)をプラス、なし(しない)をマイナスとする4象限を考える。
第1象限(罪悪感あり悪事する)・・・悪人
第2象限(罪悪感あり悪事しない)・・一般人
第3象限(罪悪感なし悪事しない)・・善人
第4象限(罪悪感なし悪事する)・・邪悪(ex.アイヒマンetc.. )
第1象限の裏は第3象限。
第2象限の裏は第4象限。
悪人の反対が善人となり一般人の反対が邪悪ということになる。
と言うことは一般人を裏返せば邪悪、つまり、ハンナアーレントの分析通り凡庸な悪になるというわけだ。
多くの場合、罪悪感が抑止力になって悪事は働かない。
だから、第1象限から第2象限への圧力は常にかかっている。
だが、もう1つ考えられる圧力がある。
心理的負担をさらに減らしたい場合は罪悪感自体をなくすという方向だ。
つまり、奇妙な言い方になるが言葉で言うなら自覚的無自覚といったところだろうか。
この場合、力は象限間に働くのではなくベクトル(横の軸/罪悪感を感じかどうか)自体に低減の圧力がかかる。
社会がよりフラット化していくほど個人はシステムに合わせることで心理的負担を減らそうとする動機を持つ。
そうすると少なくともいわゆる不良のような悪人はシステムの上ではいなくなるということになる。
別の面から見ればそれは社会の包摂性、寛容度の低下と捉えることもできる。
では罪悪感は実際どのようにして減らされていると考えるべきか。
罪悪感の感度を作り出しているのが倫理観(あるいは道徳)だとすればそれをなくせばいいということになる。
とはいえ、道徳や倫理観を意図的になくすのは心的負担が大きい。
だから、無自覚にやる必要がある。
そこで直接その“つまみ”をいじることはせずに感情の劣化という経路を経て実行する。
いや、というより結果そうなるように仕向けるといったとこだろうか。
信仰(宗教)や伝統的共同体のようにむき出しの個人を防ぐための社会的セーフティネットがない場合
個人は無防備な状態で孤立した形で世の中に放り出される。
物質的個人主義化(個人化)。
この状態で個人の内面の安全は確保されない。
まさに自己責任。
社会的システム化でもある。
不安な個人が安定するための共有できる空間の不在。
人々は自己のホメオスタシスを維持するためのリソース集めと確保に気を取られ続ける。
個人にとって大事なことでも本来あるべき社会や公共にとっては無駄ということもある。
人よりも1点多く取るという比較競争優位性がそのまま内面の安全確保に資する。
受験の世界観はそのまま世間に拡張されたと考えていいだろう。
より少ない資源でいかに高い点を取るか。
効率性。
これはそのままグローバリゼーションの考え方に通じる。
グローバル化が悪となるのは経済システムと人生を区別できなくなったときだ。
さて倫理観の話。
ここで倫理観の主体が社会で道徳の主体が個人ということくらいにしておこうか。
道徳の枷を外しやすくなるとすればそれはそれより抽象度の高い倫理観に問題が発生したとき。
感情の劣化は社会に大きな不具合が生じたときに起こりえる一種のバグなんじゃないか。
社会の虚構性が晒されことで倫理観がぐらつく。
そうするとその下層にある道徳のあり方(なくなるわけではない)にも影響を与える。
つまり、個人的に道徳観を持っていたとしてもそれを統合する倫理観との繋がりが弱まれば
道徳は実現しないケースがあり得るわけだ。
公共という国家権力と個人の中間領域が倫理観を育てる。
そこがしょぼいと個人の中における道徳のあり方も変容する。