「私がモデレーションを立ち上げた理由」
その2:サッカーボールを届ける取り組みについて
私が続けている活動のひとつに、ブラジルやアルゼンチンへサッカーボールを届ける活動があります。
その始まりはモデレーションを立ち上げる15年前、私が22歳の時です。世界で活躍するプロサッカー選手にスラム街出身者が多いことから、彼らがどんな環境で育ち、サッカーとどう向き合ってきたのかを知りたくて、単身でブラジルに向かう決意をしました。
スラム街の状況についてはなんとなく分かっていたつもりでしたが、実際に現地で目にしたものは衝撃的なものでした。水道や電気はなく、劣悪な衛生環境で、日々食べていくことも必死な暮らし。思っていた以上にひどい環境でした。
しかし、そこで暮らす子ども達は、笑顔でサッカーをしています。とはいえ、サッカーボールを買うお金はありませんから、布を丸く巻いたものをサッカーボールに見立てて、裸足で駆け回っているのです。そんな様子を見て「もっと良い環境でサッカーをしてほしい」と思いました。
翌年、スーツケースに約30個のサッカーボールを詰め込んで、ブラジルに渡りました。飛行機を降りたところでまず試練が訪れます。スーツケースいっぱいに入ったサッカーボールを見て、空港職員に止められました。「子ども達に届けに行くんだ」と伝えてもなかなか通してもらえず困っていると、結局2・3個のサッカーボールを空港職員に取られ、ようやく解放されました。もちろんこれは良いことではないのですが、アルゼンチンやブラジルでは当時、それだけサッカーボールが貴重で、何よりも人気スポーツとして国民全員がサッカーに夢中なのだということを理解した瞬間でもありました。
ブラジルで同行してくれる現地ガイドに「このサッカーボールをスラム街に届けたい。連れて行って欲しい」と私の思いを伝えましたが、最初は大反対されました。私が目指していた場所は、現地の人達はもちろんのこと、警察でさえ手に負えず近づかない超危険地帯だったからです。でも私の思いは揺るがず、なんとか交渉して現地へと向かいました。
私とガイドだけではスラム街に入ることすらできません。そこでガイドが連絡をつけてくれたスラム街のボスだという人物と近くのホテルで落ち合うことになりました。現地ガイドと私がホテルのロビーで待っていると、いかにもボスと言わんばかりの大柄な黒人の男が数名の付き人と現れました。
彼に通訳を通して、スラムの子供達にサッカーボールを届けたいことを伝えると、彼は私のことをばかにしたような顔表情で通訳と話していました。しかし、私の想いを必死に伝えると、ボスはボールを届けることを了承してくれたのです。
次の日、ボスの乗る車に同乗して目的地へ向かう途中、車の外を見ると建物の上からこちらにたくさんの銃口が向けられていました。「体を伏せておけ」という指示に従うしかない状態。「このまま撃たれて死ぬのかもしれない」と覚悟をしながら、目的地へと向かいました。ボスは「こいつは敵じゃない」そういうと、建物の上からのぞいていた銃口は下に向きました。
車は時速20kmほどのスピードでロシーニャの奥へと進んでいきました。
なんとか目的地へ到着。知らない日本人がたくさんのサッカーボールを持ってきたということで、多くの子ども達が集まってくれました。そして子ども達は私に何かを訴えるのです。通訳に聞くと「日本に連れていって欲しい」と言っていると。過酷な環境で育つ子ども達は、早くこの状況から脱したいという思いを強く持っています。小さな頃からそんな思いを持たなければいけない過酷な環境…真剣な叫びに心を打たれ、この活動は絶対に続けていこうと心に誓いました。これは決して“貧しい地域の手伝いをしたい”という高慢な思いからではありません。純粋にサッカーを愛し、この生活から脱するために本気でサッカー選手を目指している子ども達の将来のための投資です。未来に輝く才能をサポートしたいと思っています。
スラム街で暮らす人々は大きなコンプレックスと向き合いながら生きています。しかし、そこで暮らす子ども達は、笑顔でサッカーボールを追いかけているのです。夢を追いかけることと同時に、生きるとは何かを考えさせられました。
日本のサッカー少年たちには、当たり前のようにサッカーができる環境があります。私が現地で見て体感した経験は、子ども達や一緒に働くスタッフへも伝えています。また同じ業界で働く方にも伝えていくことで、私の取り組みに共感し、応援して下さる方も増えてきました。これからもこの活動を続け、多くの出会いを大切にしながら、海外との繋がりをより強いものにしていきます。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は私藤川とサッカーとの出会いから、サッカー業界で働くきっかけについてご紹介させていただきます。
