旦那の同級生で、私も高校生の頃からすごく世話になり、身内以上に私ら夫婦の中では、身内の様だった先輩も 亡くなってしまった・・(;_;)
その妻も・・ おじいさん おばあさんも・・
小Ⅰの双子と小2の子だけを残して・・
町では、誰もが知ってる先輩だけど・・身元確認を して断定して・・っていう近い身内すらも 亡くなってしまって・・
このままじゃ 同じく身内の人を 探すために 収容所に入った人達が、顔を見て見つけてくれたとしても・・
遺体を 引き取ってくれたり、火葬の手配を してくれたり・・
後見してくれる人がいなきゃ いつまでも 置かれっぱなしになってしまうのでは、ないだろか(:_;)

明日、遺体収容所に 旦那と一緒に行ってみようかなぁーと 思っている・・

上記の先輩と共に・・私にしてみれば兄貴の様にしたって来た1つ年上の先輩の所は、その先輩と奥さんは助かったけど、 二人の子供と じぃばぁは、だめだった・・
小4とやっと2つ位になる子供・・二人目に関しては、やっとやっと授かった
女の子だった。
先輩は、役所職員 奥さんは、先生・・どちらも、自分の仕事を投げ捨てて 自分の子供を守るために 駆け出す事は、出来ない仕事だった・・


消防団員は、沢山の若い人達が犠牲になった
役所も本当に沢山の人達が死んだ。
本当に 戦場映画の中に 入り込んでしまった見たいなんだよ


それぞれその時 居た場によって・・
聞く人〃 みんないなくなってしまった・・

私は、店員を していたので 名前は、知らないけど毎日 顔を 合わせては、お互い笑って 挨拶してた人は、数限りない・・
数年してから・・ あの人も この人も・・
居無くなってしまった事に気付かされ その度に その人を 想い浮かべ 淋しさを 感じるんだろぅなぁー・・と

それほどの人が ほんの数分のうちに いなくなってしまったのだ・・

3月19日 朝。


遺体収容所も・だけど・・震災3日目に 普段なら 絶対有り得ない行き方で 山を 伝ってやっと下りて・・一山越えて行って 顔を見て確認し私の母。
家は、見事に何にもないけど、 かろうじて命は、助かった。

家があったはずの所に いち早く母が 行ったら、 私の妹が まだ小さい時の私の長男(現16)を 抱いて 一緒に撮った写真たった一枚・・と、
ハサミ美容院だけは、見つけた・・と 泣いていた。(何でハサミ!?ガーンと、思ったが・・)

混乱していたので 家を出る時、 何を 持って行けばいいかわからず とりあえず ベンチコートと 防寒シート かばんをしょって 今朝茹でた ゆでたまごヒヨコと何故か沢山の塩を 持ってでかけた。
帰りは、私が しょって行ったかばんも 母の肩にしょわせて帰ってきた。
服も 今着ているもののみ・・
次に来れる時は、いっぱい持ってくるから!と言って帰ってきた。
ちなみに、私の実家は、隣町なのだが・・
海岸から 歩いて一分位の所にあるので ここ数年膝が痛いと、機敏な行動ができない母・・
多分ダメかもしれない・・と 内心覚悟を決めていた。だから、生きているとわかった時は、喜びとか感激を越えて 無言になってしまった・・


96になる 祖母も 地震後すぐ 軽トラに乗せて 山の上の方の公民館に避難させてから、 津波がくるまでの20数分の間に 大事なものを持ち出したり 避難したみたいで・・
とっさに その判断を 叔父家族がしてなかったら・・

間違いなく 手を つないだまま 水に浸かって そのうちに 波とガレキに巻かれて 手が離れてしまい すぐに声が聞こえなくなってしまった。
とか・・
巻かれて離れて行く人と 目を 見合わせながらも 手を 伸ばしても 届く事もなく 死んで行く瞬間を 何人も見る・・そぅいう事になったはず・・(>_<) そんな人があまりにも いっぱい・・

子供と共にそうなった人がいっぱいいる・・

言葉が 無い・・

震災2日目 両肩を 抱かれ泣き崩れながら 連れられてる人が 避難所には、いっぱい居たそうだ・・ 胸が 潰れそうだった・・ 吐き気がするほど・・
胸の奥に何かが詰まってとれないみたいになった

母に 衣類を 持って行きたい・・でも 私の車は、 ガソリンがすでに尽いているからしょぼん
行けるかどうか・・
遺体安置所には、 一時間位 歩けば いけるけど 実家は、 とても 歩いては、いけない・・なぁー
日付変わって・・
3月19日 0時 眠れない
(*_*)


きのうは、避難所の炊き出し当番に一日行ってきた。
避難所も そろそろ揉め事が多かれ少なかれ 起きてきていて 家がなくなってしまった・・何一つ無くなってしまった 人達の居場所だから仕方がないとわかっては、いるんだよ。
わかっちゃいるんだが・・まかなう方も まかないの日々 プラス自分ちに来ている避難者の世話・・
家の片付け・・
疲れが出てきてヘトヘトだよ
物資は、まず 避難所に 来るから 公民館には、山積みの食料があるけど 一回〃消費量が多いため、多分次いつ入るという保証は、わからないしで・・
出し惜しみ状態のような感じが続いていて
せっかくの菓子パンも 賞味切れギリギリ。
その一つの菓子パンを 袋を 開けて 一人 3分の2に切って分けて、又そのパンの袋に入れて 配布してる。
うちは、 足も伸ばして寝れるし 自家水が 細いながらも出てるから 天気の良かった 5日目に 薪でたえず沸かしてるお湯を 集めて ジョウロに入れて 7人頭を 洗った。(その時の わが家の収容人数・18名)
少しでも お湯を 無駄にしないように 流したお湯を 一度洗面器に貯めるようにして 洗ったら みんな まず 全然泡立たないし すすぎの水は、グレーになった。
がれきの中を 歩くから・・ みんな 頭を洗いたいと 避難所では、言ってたけど、調理する水すら水道が出ないから 給水車から 補給してもらったり近くから組んで歩いて運んできたバケツの溜め水で 100人近くのご飯を 煮炊きしてるから・・
多分みんなは、顔すらも 洗ってないはず・・ 家が 残った ありがたさを ひしひしと感じるよ。

そんな状態で7日もたつと 言い争めいた事も出てくるし その人となりが あからさまに出てくる。いつまでも 置いて貰っている・・状態で 一日中 座っていたり、これからの事・震災の時の事 亡くした家族を 思って何も気力の起きない人・・
それぞれが いろいろな想いで体すら動かす気力もなかったのかもしれないが・
私たちだって、家は、残ったけど、その分、がんばって必死になって震災から明けた早朝から・・
ここの避難所から、何千個のおにぎりが出発していった事か・・
家がないから 被災者。
家があるから 被災者じゃない! そんな空気流れ始めていた気がした・・
それは、違うだろう!!
堂々とは、口にできなかったけど 内心私は、ムッとした。

朝から 手際よく 次々に 米を精米→炊く→おにぎりに結ぶ。 実に 手際よく
とても初めての 救済活動だとは、思えない動きで うちの地区の 婦人会の方々は、がんばっていた。
私なんかムカつく資格もないのだけど その婦人会のおばさん達の気持ちを 考えたら 腹がたったのだよ(-_-)


どちらにしても 恐怖 疲労さまざまなものが そろそろ限界に達しつつある時で 双方の不満が 爆発したんだなっ・・