毎日の日課の一つに、
息子が仏さまにご飯を上げに行くというのかある。
しつけたわけではなく、率先して行ってくれる。
今日も、いつものように上げに行ってくれた。
すると、突然泣き出した。
慌てて駆け寄ると、
息子のおでこが切れ血がにじみ、大きなたんこぶができていた。
どうやら、こけてぶつけたらしい。
それをみた母が泣きながら謝った。
そして、最後に
「智子のときもこうやった。
何度も行ってくれていたから、
大丈夫と思い、ついていかなかった。」
きっと、あのときの後悔が蘇ったのだろう。
「智子のとき」や「あのとき」とは、
4歳のころに、全身に大火傷を負った時のこと。
やけどの原因は、昔のお風呂に落ちたこと。
入園式を終え、お姉さん気分になった私は、
陽気に姉の代わりにお風呂のお湯を止めに行った。
昔の、熱湯が上に、真水が下にくるタイプの湯沸し器のお風呂。
その中に、なぜか落ちてしまった。
小柄なせいか、ポチャンと音がしただけ。
父が不穏に思い、すぐ見に来ると、
なぜか服がびしょ濡れな私が浴槽の横に立っていたという。
私は自力でお風呂からでてたのだ。
きっと父からみれば、
なぜ私がびしょ濡れなのかわからなかっただろう。
とりあえず、脱がそうと服を服をめくった瞬間、
服に皮膚がくっつき、めくれてきたという。
ホラーだったに違いない。
それでも、父は冷静に、
服を戻し、押さえながらシャワーで水をかけ続けた。
母が呼んだ救急車に、父にしっかり抱かれながら乗ったのを今でも覚えている。
ぎゅっと押さえ続けてくれた手の位置の皮膚は、
そのままくっつき今も形が残っている。
きっと、不安と助かってほしいという願いが込められているのだと思った。
私が運ばれた風呂場から玄関までの廊下には、
運ぶ際に、めくれた皮膚がばらばらと落ちていたらしい。
私がやけどをおったとき、母は、臨月。妹がお腹に入っていてた。
だから、あまり刺激しないようにと、私の様態は伝えられなかったそう。
搬送され手術したあと医者から、
全身に30%のやけどを負った子供は助からないと言われていた。
確かに、子供は30%、大人でも50%全身にやけどを負うと死ぬと言われている。
55%を越えていて、
皮膚が壊死するといわれる深度3の部分も多数あった私は、
死んで当然だった。
手術をするにもできなかったらしく、
首から上と手足首から先以外は、
滅菌ガーゼを当て、感染を避けなくてはならなかったそう。
ガーゼの上から全身タオルでくるむため、
病院からの指示で30枚新品のタオルがいると言われ、
祖父母は新品のバスタオルを全部切って作ってくれた。
搬送されて1日目の夜のこと。
意識がな区寝ているにも関わらず、
あまりの痛さにベットから30㎝ほど飛び上がっていたらしい。
医者に残念ですがと言われが、
生死をさまよい、奇跡的に3日後、息を吹き返した。
奇跡としか言えない、医学では証明できない、
生きる力が強かったしかないと、医者に言われた。
母が私と面会したのは、
だいぶ経ってからのことらしい。
ショックを受け流産してはいけないと言われ、
瀕死なことすら告げられていなかった。
だから、
全身ミイラのように包帯ぐるぐる巻きになった私をみたときは、
本当に驚き、嘆いたらしい。
それからというもの、
激痛の治療と片手では終えないほど殖皮術をした。
初めての手術は事故から10日後。
豚の皮を張る植皮術。
そして、5/20に再度、足らなかった部分に自分の皮膚を張る植皮術。
皮膚が足らず、髪の毛もそって、頭からも皮膚をとらなくてはならなかった。
ようやく、なんとか皮膚がつき始めた。
痒くて痛くて無意識にベットの上を転げ回っていたと聞いた。
毎日のガーゼ交換は、悲鳴に近い状態なぐらい、
痛み苦しんだ。
それから片手では終えないぐらい手術をして、
今普通に生活できるまでになった。
今もやけどでお世話になった病院にかかることが多く、
有り難いことに年配の看護士さんの中には、
私を覚えてくれている方も少なくない。
それでも、
いくら手術してもやけどが完全に消えることはない。
自分でも、醜いと思ったやけど。
両親もきっと「この子は結婚できないだろう」と思ったにちがいない。
実際、
幼少期からいじめや言葉の暴力はあった。
でも、幸い、私は恵まれたことに、
たくさんの友達が守り、支えてくれ、
私自身も口が達者だったため言い返し、
たしいして、泣いたり悩んだりした記憶はない(笑)
―――続く―――