「精神科医の中では悠仁さまの体調問題については知れ渡っている」
元週刊文春編集長 木俣正剛さんが元朝日新聞記者の佐藤章さんと一月万冊で対談し、衝撃的な衝撃的な発言をされました。
このユーチューブ動画のタイトルは「特ダネ!高市早苗と麻生太郎に天皇家の怒り!内閣総理大臣と天皇の内奏で何が起きたのか」です。
改めて動画を見てみると「精神科医が何人か集まると悠仁さまの話題が必ず出る」
「筑波には特殊学級があるからね」
と発言した精神科医がいたという。
悠仁さまが通われていた高校は、筑波大学附属高等学校で東京都文京区にあり、通称「筑波付属高校」または「筑附」と呼ばれています。
しかし、在籍していた筑波大学附属高等学校には、特殊学級(現在の特別支援学級)は設置されていません。
ただ、筑波大学には複数の附属特別支援学校がありますが、これらは筑波大学附属高等学校とは別の独立した学校です。
木俣さんは、以前に出演したユーチューブ番組の中で「悠仁さまの体調不良の問題については詳細をお話しできない」としたうえで、ヒントとして「秋篠宮家の全員が手話に精通していること」を挙げていました。
素直に受け取れば、聴覚に問題のある家族がいるのだと推測できます。
もし仮に聴覚に障害があるとすれば、市川市にある筑波大学附属聴覚特別支援学校でしょうか。
筑波大学附属聴覚特別支援学校は、聴覚に障害のある幼児・児童・生徒を対象とした、国内で唯一の国立大学附属の特別支援学校(聾学校)です。
千葉県市川市国府台にあり、筑波大学の附属学校として聴覚障害教育の実践と研究を行っています。
赤坂御所からだ車での所要時間は、首都高速経由で約40分前後かかります。
もう一つの候補としては、大塚にある筑波大学附属大塚特別支援学校でしょうか。知的障害のある幼児・児童・生徒を対象とした国立の特別支援学校です。
筑波大学の附属学校として、教育実践と研究の両方を担っており、赤坂御所からは車で約20分ほどの距離です。
テレ東ビズが暴露した「高校時代は施設に通われていた」といった話とも一致してきます。
公的報道によると、悠仁さまは、筑波大学附属高等学校に2022年4月に入学され、2025年3月18日に卒業されました。
お茶の水女子大学附属中学校からの提携校進学制度を利用し、一般の学力検査も受けて進学された経緯があります。 高校ではバドミントン部に所属し、文化祭でクラスメートと石窯ピザを販売したり、沖縄への修学旅行に参加したりと、充実した3年間を過ごされたと宮内庁や報道で伝えられています。
卒業後は2025年4月から筑波大学生命環境学群生物学類に進学されています。
木俣さんは元朝日新聞記者の佐藤さんとの対談でほかにも「改正皇室典範の採決を取る前に、悠仁さまが公務に耐えられるかどうかのヒアリングを行う必要があった」と発言されています。
ヒアリングを行うためには、秋篠宮さま、悠仁さまに承諾を取るうえで体調に問題がないかどうかのヒアリングや調査をするべきだったと。以前に出演されたユーチューブ番組でも、このまま事実を隠したまま将来天皇に即位すると「即位できたとしても短命で退位される可能性が高い」といった内容の発言をされていました。
高市総理は「悠仁さままでのお代を揺るがせにしてはならない」と2021年有識者会議の報告書を念誦のように繰り替えてしますが、その前提が崩れた時には、一体どうするおつもりなのでしょうか。
いま、成年皇族として歩み始めた悠仁さまの姿が、少しずつ具体的になってきています。
2026年9月6日、悠仁さまは20歳の誕生日を迎えられました。
1年前の19歳の誕生日には、成年皇族となったことを示す「成年式」が執り行われました。
加冠の儀で天皇陛下から冠を授かり、朝見の儀では天皇皇后両陛下を前に、成年皇族としての責務を自覚し、学業と経験を積み重ねていく決意を述べられました。
男性皇族の成年式は、父・秋篠宮さま以来40年ぶりのことでした。
その悠仁さまが今、力を注いでいるのが大学での学びです。
2025年4月、悠仁さまは筑波大学生命環境学群生物学類に進学されました。
戦後生まれの皇族が国立大学に進学するのは初めてのことです。
専攻するのは生物学、なかでも幼いころから続けてきたトンボの研究です。
高校2年生のときには赤坂御用地のトンボ相に関する論文を筆頭著者としてまとめられており、大学進学後もこの研究を続けています。
2026年に入ってからは、大学2年生として本格的なフィールドワークが始まっています。
国立科学博物館が発行する調査報告書には、皇居内のトンボ類に関する論文が掲載され、そこには悠仁さまが学業の合間に調査へ同行したことへの謝辞が記されました。専門家との共同調査は、公務の合間を縫って続けられているようです。
一方で、こうした研究活動には注目も集まりやすく、高校時代の論文をめぐって、用語の使い方について研究者から指摘が出る一幕もありました。学術的な議論が公になること自体、悠仁さまの活動が社会的な関心の対象になっていることの表れともいえます。
学業と公務の両立も、悠仁さまの大学生活の特徴です。
5月には、来日した外国要人を迎える宮中晩餐会に初めて出席されましたが、この日は平日だったため、大学の授業を終えてから臨まれたと伝えられています。
夏には、皇族としての活動の幅も広がりました。8月には広島を訪問し、広島平和都市記念碑での供花や、本川小学校平和資料館への訪問を行われています。
同じく8月には第19回日本スカウトジャンボリーに出席し、参加者を前に初めて自身の言葉で挨拶をされました。
大歓声と拍手が実際の映像に追加されたのではないかと指摘されるほどの、熱烈な歓声と拍手だったのも、まだ記憶に新しいですね。
9月には、父・秋篠宮さまとともに東北地方を訪問されています。気仙沼市では東日本大震災の遺構・伝承館や魚市場を視察し、陸前高田市では養魚場や診療所を訪ねられました。
診療所への訪問は、悠仁さまにとって震災の被災地における初めての視察でしたが、東北訪問は公務ではなく私的な訪問でした。なぜ、公務ではなかったのか?不思議で仕方がありません。
木俣さんが指摘した悠仁さまの体調不良問題から、日本の皇室をめぐって、非常に大きな問題が浮かび上がっています。
それは、皇位継承をこれからも「男系男子」に限定し続けることが、本当に安定した皇室の未来につながるのかという問題です。
2026年、皇室典範等の改正法が成立しました。
今回の改正では、女性皇族が一般男性と結婚した場合でも皇族の身分を保持できる制度が設けられました。
同時に、旧宮家の男系男子の子孫で、現在は皇族ではない男性を、皇族の養子として迎えることができる制度も導入されます。
ところが、皇位継承の根本的なルールは変わっていません。
皇室典範第一条に定められている「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」という原則は、そのまま維持されています。
つまり今回の改正は、皇族の数をどう確保するかについては制度を大きく変更しましたが、誰が天皇になれるのかという問題については、男系男子という従来の原則を維持したのです。
ここで、いまの皇室の次世代を見てみる必要があります。
現在、皇位継承資格を持つ次世代の男性皇族は、悠仁さまお一人です。
政府も、今上陛下、秋篠宮さま、そして次世代の皇位継承資格者である悠仁さまという皇位継承の流れを前提として、今回の制度改正を説明しています。
2026年9月6日、悠仁さまは20歳を迎えられました。
成年皇族となり、大学で学ばれる一方、皇族としての活動も広げられています。
8月には広島を訪問され、広島平和都市記念碑への供花や、本川小学校平和資料館を訪問されました。
また、第19回日本スカウトジャンボリーにも出席され、初めておことばを述べられています。
9月には秋篠宮さまとともに東北を訪問され、東日本大震災の遺構・伝承館や魚市場、養魚場、診療所などを訪問されています。
このように、悠仁さまが成年皇族として活動の幅を広げていることは事実です。
しかし、ここで考える必要があります。
現在の皇室典範では、次世代の皇位継承資格者として男性である悠仁さまに大きな役割が集中しています。
もちろん、悠仁さまが将来どのような人生を歩まれるのか、現在の時点で決めつけることはできません。
そして、これは悠仁さまに限った話ではありません。
人間である以上、誰であっても将来の健康状態や生活環境、公務を継続できる状況が永遠に保証されているわけではありません。
また悠仁さまが結婚し、男の子を生むことに非常に大きなプレッシャーが掛かっています。
男の子が生まれなければ、皇統が今上陛下らから秋篠宮家にそして旧宮家へとまた移行してしまうからです。
あまりに酷な話だと思いますし、木俣さんのお話通り、悠仁さまに現時点で「体調不良問題」がおありになれば、その負担はあまりに残酷としか言わざるを得ません。
なぜ、そこまでして男系男子にこだわる必要があるのでしょうか。
公的に確認されていない体調をめぐる言説を、事実として断定することはできませんが、仮にそうした懸念がすべて根拠のないものであったとしても、次世代の男系男子が悠仁さまお一人である以上、制度はすでに、悠仁さまの健康、結婚、出産、公務適性に国家の安定を預けてしまっています。
ここに、大正天皇の時代が示す残酷さが重なります。
大正天皇は、明治12年に明治天皇の第3皇子としてお生まれになりました。
生後間もなく髄膜炎様の疾患を患い、幼少期にも百日咳、腸チフス、胸膜炎などを経ておられます。
学習院では欠席が続き、のちに中途退学されました。
成長とともに皇太子としての地方巡啓や朝鮮訪問も行い、漢詩に秀で、人柄を慕う記録も残っています。
つまり「暗愚」という後世の俗説は、病弱と短い治世を単純化した誤解に近いものなのです。
問題は才能の有無ではありませんでした。君主という職務が、個人の身体の限界を超えて設計されていたことにあります。
即位後、第一次世界大戦と政局の混迷が重なるなかで病状は進行しました。
大正3年ごろから発語の障害が現れ、姿勢の前屈、階段昇降の困難、記憶や判断の衰えが記録されていきます。
近年の医学的検討では、原発性進行性失語や大脳皮質基底核症候群の可能性も指摘されますが、確定診断はできません。
重要なのは診断名ではありません。宮中は長年、病状の核心を十分に公開せず、神経痛などとして処理しつつ、開院式への臨席すら困難になる事態を先送りしたことにあります。
大正10年11月25日、20歳の皇太子裕仁親王が摂政に就任されました。宮内省の容体書は、幼い頃の脳膜炎様疾患と政務の心労を挙げ、「脳力衰退」と発語障害によって意思の表明が困難になったと記しています。
対象天皇ご自身は「自分は別に悪くない」と周囲に語られた記録もあります。本人の自覚と、国家が求める職務能力とのあいだに、埋めがたい溝があったのです。
ここで見落とされがちなのは、大正期には予備が存在したという事実です。
大正天皇には4人の皇子がいらっしゃいました。
裕仁親王のほか、秩父宮さま、高松宮さま、三笠宮さまです。摂政を立て、治世の後半を静養に充てても、男系男子のプールは残っていました。
昭和天皇が摂政となられたとき、すでに成年に達し、欧州訪問を経て公務の訓練を積んでおられました。
制度は個人の健康に依存していましたが、同時に複数の男子によってリスクを分散していたのです。
それでも摂政設置まで10年近くを要し、公開は段階的で、国政の儀礼は滞りました。身体の限界が制度の限界を露呈するまで、宮中は時間を稼いだのです。
現在の次世代には、その予備がありません。
皇位継承資格を持つ次世代の男性皇族は、悠仁さまお一人です。
2026年の皇室典範改正は、女性皇族の婚姻後の身分保持と、旧宮家男系男子の養子縁組を導入しました。
しかし第一条の「皇統に属する男系の男子」という原則は維持されました。
養子本人に継承資格はなく、将来その男子の子孫に資格を有します。
皇族数の減少には手を打ちましたが、誰が天皇たりうるかという中核は動かさなかったのです。
政府説明も、今上陛下、秋篠宮さま、悠仁さまという流れを前提としています。
つまり制度は、悠仁さまが成年皇族として学び、結婚し、男子をもうけ、長期の公務に耐えることを、暗黙の条件にしています。
この条件は、個人に対してあまりに重いものと思いませんか。
天皇・皇族の職務は、憲法上の国事行為、象徴としての儀礼、被災地や国際親善、祭祀、そして何より途切れない継続性への期待です。
大正天皇の例が示すのは、その期待が身体を消耗させるという歴史です。即位後の過密な儀式と政務、心労、病状の進行、そして20歳の皇太子への権限移譲。
当時ですら、複数の皇子がいらっしゃいました。いまは、その「次」が制度上ほとんど用意されていません。
悠仁さまが結婚し、男子が生まれなければ、今上陛下から秋篠宮家へ、さらに旧宮家の系統へと重心が移る可能性が語られます。
生まれた子の性別が、個人の幸福である以前に、皇統の分岐点として読み替えられるのです。これは家族の問題ではありません。国家が一人の青年の生殖に安定を賭けている、ということです。
木俣正剛さんが指摘したヒアリングの必要性は、診断の是非を超えて制度論として読むべきです。
改正の採決前に、将来の天皇が長期の公務に耐えうるかという検証がなかった、という主張の賛否は別にしても、検証の対象が一人に集中していること自体が異常です。
一般の組織であれば、継承計画は複数の候補と権限代行の経路を持ちます。
皇室には摂政の規定があります。しかし摂政は、天皇が幼少、重患、重大な事故などの場合の応急措置であり、次世代の継承資格者を増やす制度ではありません。
大正10年の摂政は、四人の皇子を持つ皇室の内部で完結しました。
令和の次世代で同様の事態が起きれば、応急措置の先に見えるのは、旧宮家養子の子孫というさらに遠い将来か、あるいは原則そのものの再検討です。どちらにせよ、悠仁さま一代に空白を埋める役割が集中します。
公的に見える悠仁さまの近況は、むしろその集中を加速させています。
2025年4月に筑波大学生命環境学群生物学類へ進学され、戦後生まれの皇族として初めて国立大学で学ばれています。
トンボ研究を続け、博物館の調査に同行し、論文や謝辞に名が残っています。2025年9月の成年式では、加冠の儀と朝見の儀に臨み、成年皇族としての責務を述べられました。
2026年9月6日に20歳を迎え、大学二年生としてフィールドワークを深めつつ、宮中晩餐会、広島での供花、スカウトジャンボリーでのおことば、東北訪問など、活動の幅を広げておられます。授業を終えてから公式行事に臨む日もあります。
学業と公務の両立は美談になりやすいものです。
しかし美談は、制度の負荷を見えにくくします。大正天皇も、皇太子時代には全国を巡られました。健康が回復した時期があったからこそ、即位後の崩壊が際立ったのです。個人の努力と関心が豊かであるほど、「だから大丈夫だ」という楽観が制度の点検を後回しにします。
残酷さは、病の有無を断定することではありません。断定できないまま、一人に将来の全部を背負わせることにあります。
聴覚や知的障害、精神科医の話題といった言説は、検証されないまま流通しやすいものです。
大正期にも、遠眼鏡事件をはじめとする逸話が一人歩きし、「暗愚」のイメージが定着しました。
本人の詩才や、病状への無自覚、静養先での日常は、物語の陰に落ちました。
公開が遅れたことが、かえって人格攻撃を招いたのです。現代も構造は似ています。公式発表は学業と公務の充実を伝え、週刊誌や動画は体調を暗示します。
旧宮家の養子制度は、この残酷さを緩和するようでいて、実は先送りです。
養子本人は継承資格を持ちません。資格が生じるのは、その将来の男子においてです。つまり直近の空白を埋めるのは、なお悠仁さまなのです。
女性皇族が婚姻後も身分を保持しても、現行第一条の下ではその子は原則として天皇になれません。周辺の人数は増えても、中核の一本橋は残ります。
一本橋の上に立つ人間に、「揺るがせにしてはならない」と繰り返すことは、激励であると同時に、降りられない橋を固定する宣言でもあります。
高市首相が有識者会議の報告書を反復するとき、その前提は悠仁さままでの男系が安定して続くことです。
前提が崩れたときの代替案を、改正は書きませんでした。
大正天皇の病状が進行したとき、宮中は皇太子という代替を内部に持っていました。
いまの制度は、代替を「将来生まれる男子」と「旧宮家のさらに次の世代」に外部化しています。
生きている一人の青年の現在を、まだ存在しない男子の将来で支える設計なのです。
象徴天皇制の現代は、明治憲法下の天皇とは役割が異なります。
だからこそ、より長期の安定と、より人間的な持続可能性が問われるはずでした。
なのに改正は、男系男子の原則を温存したまま、周辺だけを増やす道を選びました。選ばれたのは安定ではなく、原則の維持です。その代価を、いちばん若い継承資格者が払うことになります。
女性天皇を認め、愛子さまに皇位継承権を付与し、直系長子を最優先とするなら、皇位継承者が増え、この難局を乗り越えることができます。愛子さまは人柄・知性・資質ともに優れています。
改正皇室典範のまま進むのであれば、すべての運命は悠仁さま一人にかかっています。果たして耐えられるのでしょうか。きっと、ご本人もやってみないと分からないというかもしれません。
リヒテンシュタインが男系男子から直系長子に切り替わり、今や世界中を見渡してみても、男系男子に固執しているのは日本だけです。戦後、日本国憲法に変わり天皇の役割は象徴天皇制に変わりました。国民の総意があれば、男系男子の女性が即位しても問題ないのです。
愛子さまが即位し、その後はまだ時間があるのですから、じっくり議論することも可能です。なぜ、日本国を左右する重大な議論を十分に議論することもなく、拙速に結論を出してしまったのか。高市首相の責任は非常に重いものがあります。
改正皇室典範を廃案、あるいは再改正しようではありませんか。あなたはどう思いますか。ぜひコメント欄で教えてくださいね。チャンネル登録もお願いします💕
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