瑶子女王は1983年10月25日、寬仁親王と同妃信子の第二王女として誕生した。大正天皇の曾孫であり、今上天皇とは再従妹にあたる。身位は女王、敬称は殿下、お印は星。学習院の幼稚園から初等科、女子中等科、女子高等科を経て、学習院女子大学国際文化交流学部日本文化学科を2006年に卒業した。学位は学士(日本文化)。初等科5年から剣道を始め、大学時代には女子副主将を務め、フランスやドイツへの親善使節団に参加し、愛知万博でのデモンストレーションにも姿を見せた。卒業後も初等科剣道部でボランティア指導を続け、令和8年時点で六段に達している。第61回全日本剣道選手権大会では優勝者に天皇杯を授与したこともあった。
成年を迎えた2003年、明仁上皇から勲二等宝冠章を受け、以後宮中行事や祭祀に出席するようになる。大学卒業後の2006年12月から2012年11月まで、日本赤十字社で嘱託ながら常勤として勤務した。事業局組織推進部青少年・ボランティア課を経て血液事業本部販売管理課に所属し、女性皇族として史上初めての常勤勤務となった。父母が闘病中で、姉の彬子女王が留学中だった時期には、その分の公務も一手に引き受けた。2013年には一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会総裁に、2014年には社会福祉法人友愛十字会総裁に、2021年にはNPO法人日本ユニバーサル・サウンドデザイン協会名誉総裁に就任した。2022年には大阪府で開催された全国道場少年剣道大会に出席し、観覧した。同年2月には新型コロナウイルスに感染し、皇族として初めての事例として入院したが、回復して退院した。3月にはメニエール病を原因とする低音型の感音性難聴を自ら明かし、心境を綴った手紙を宮内記者会に寄せた。2025年11月には剣道六段に合格した。
外遊歴では2019年にミャンマーを私的訪問し、日本の皇族として初めての同国訪問となった。近年はモータースポーツへの関心が特に強く、父寬仁親王が務めていた東京モーターショーの総裁を引き継ぎ、名称変更後のJAPAN MOBILITY SHOWでも総裁を務めている。全日本スーパーフォーミュラ選手権では瑶子女王杯が創設され、名誉総裁にも就任した。サーキットでのあいさつでは「にわかファンではございません」と述べ、現場の熱気を共に感じたいとの思いを語ったこともある。ジャパンモビリティショーや各種自動車関連行事を通じて自動車産業の振興に寄与してきた姿は、父の遺志を継ぐものとして一部で評価されてきた。
しかし、こうした活動の一方で、近年の振る舞いが国民の批判を集めるようになった。金髪にピンクのメッシュを入れ、左耳の軟骨にピアスを着けた姿で園遊会に臨む姿は、たびたび話題となった。2024年の秋の園遊会では明るい髪色にピンクメッシュをあしらい、和装で参加して注目を浴びた。スーパーフォーミュラの場でも両耳と軟骨にピアスを着け、赤いセットアップをまとう姿が見られた。私的旅行として米国を訪れ、日本の芸術文化を紹介するBACK WALL PROJECTに参加する一方で、モントレー・カー・ウィークやペブルビーチのクラシックカーイベントを視察する日程が組まれた。2024年にはイベントで企業ロゴ入りのTシャツを着てサングラス姿でサムズアップする写真が拡散され、現地メディアの取材にも応じたことが波紋を呼んだ。宮内庁内では特定企業の宣伝につながりかねないとして懸念の声が上がり、中立性を重んじる皇族の立場から問題視された。それにもかかわらず、翌年も同じイベントに参加するため渡米し、2026年8月3日から18日の日程でも再び私的に米国を訪れる予定が発表された。原爆の日や終戦の日が重なる時期であることへの批判もSNS上で広がり、「原爆が投下された日にアメリカ?」「宮内庁は厳しく言うべきだ」といった声が上がった。宮内庁職員は同行せず、私的旅行の位置づけが強調された。
高級カーディーラーの関係者との懇意も指摘された。イベントを支援する企業の社長と親しくなり、モータースポーツ関連の活動を共に進めてきたとされる。2025年10月には都内のホテルで同社関係者との食事会に同席し、社長の子供を膝に乗せる様子も見られたという。ロゴ入りTシャツ騒動の後も関係が続いていることに、関係者から憂慮の声が寄せられた。姉の彬子女王からは「皇族としての自覚が足りない」と叱責を受けたとも伝えられるが、本人の行動は変わらなかった。非公開のSNSアカウントを持ち、イベント写真を投稿していた時期もあったが、削除された。こうした自由奔放な姿は、一部で「カッコいい」と称賛される一方、「皇族らしからぬ」との批判を招き、家庭内の不満を発散しているのではとの見方も出た。
家族関係は複雑を極めてきた。父寬仁親王は「ヒゲの殿下」として親しまれ、癌を患いながらも家族を案じた。1997年、ダイアナ元妃の事故死をきっかけに、当時15歳と13歳だった彬子女王と瑶子女王が離婚について尋ねたエピソードが、寬仁親王の著書に記されている。「オトーマとオカーマが離婚したら、私たちはどうなるの?」との問いに、親王は真剣に説明したという。2000年頃から夫婦関係が悪化し、母信子妃の言動に耐えかねた姉妹が「家族会議を開いてください」と父に申し出た。信子妃の虚言癖や、長時間立たせたままの説教、他の宮家への悪口が幼少時から吹き込まれていたとされる。姉妹は母の言葉を信じ、他の宮家に近づくことを恐れていた。寬仁親王は娘たちの苦しみに気づき、ショックを受けた。信子妃側はこれを否定し、寬仁親王によるメンタル的なDVが原因だったと主張する。2004年、信子妃は更年期障害と胃潰瘍の療養を名目に軽井沢で別居を始め、以後赤坂御用地を離れた生活が続いた。ストレス性喘息の診断も受け、御用地に戻れば悪化する可能性があるとされている。
寬仁親王が2012年に薨去した後も、母娘の対立は続いた。2024年に百合子妃が薨去し、三笠宮家の当主問題が浮上した。2025年9月の皇室経済会議で、彬子女王が三笠宮家の当主となり、信子妃が「三笠宮寬仁親王妃家」を創設して当主となることが決まった。信子妃の皇族費は倍増の年間3050万円となり、住居改修などに約15億円が負担された。彬子女王の皇族費も増額されたが、瑶子女王には変更がなかった。瑶子女王は晩年の百合子妃を支え、家を守ってきた自負があり、「ないがしろにされている」との思いを抱いたとされる。姉妹間でもすれ違いがあり、彬子女王が研究や伝統文化普及で京都に滞在することが多い一方、瑶子女王が宮邸の差配を担ってきたことへの不満があった。園遊会では隣に並んでも目を合わせず、厳しい表情を浮かべる場面もあった。2025年10月の秋の園遊会では、瑶子女王が途中退出する異例の対応が取られ、宮内庁職員も理由を知らされずざわついた。2026年5月の春の園遊会では、ライトブルーのリンクコーデで会話を交わす様子が見られ、転居に伴う生活の変化が関係改善につながったとの見方も出たが、根深い確執は消えていない。彬子女王が三笠宮邸に移り、瑶子女王は東邸に残り、信子妃は高輪で仮住まいという分居が定着した。
モータースポーツの分野でも姉妹の競い合いが指摘される。瑶子女王がスーパーフォーミュラの名誉総裁や瑶子女王杯を務める一方、彬子女王はF1日本グランプリの最高名誉総裁に就任し、プレゼンターを務めた。父が関心を寄せた分野を巡る「ゆずれない」思いがあるとされる。宮様スキー大会でも、信子妃が三笠宮杯の授与にこだわり、彬子女王が欠席する場面があった。
こうした半生を振り返ると、瑶子女王は日本赤十字社での常勤勤務をはじめ、剣道を通じた青少年育成、ユニバーサルデザインや福祉の総裁職、自動車産業振興など、幅広い公務をこなしてきた。父の遺志を継ぎ、現場に近いところで活動したいとの思いは一貫している。しかし金髪メッシュやピアス、企業ロゴ入りTシャツ、終戦関連の日を含む私的渡米、特定企業との親密な関係は、皇族としての中立性や慎みを求める声と衝突した。宮内庁の懸念や姉からの叱責にもかかわらず、行動を改めない姿は「破天荒」と評され、国民の一部から強い批判を浴びた。
改正皇室典範の議論の中で、瑶子女王にも注目が集まる。養親となる資格が認められ、養子を迎えた男子が将来男子を生めば、彼女は天皇の祖母となり得る立場になる。伯父は麻生太郎であり、旧宮家の男系男子を養子に迎える案を強力に推進した人物の姪として、皇室介入への批判と重ねて見られることもある。一方で、今上天皇とは6親等も離れた遠い皇族である。愛子内親王は結婚しても夫や子供は民間人のままで、愛子内親王一代限りで皇室とは無縁となり、天皇一家の血統は皇室から排除される。同じ女性皇族でありながら、直系に近い愛子内親王の子孫が排除され、遠い瑶子女王の養子を通じた男系が優先される理不尽さは明らかだ。皇族数の減少を理由に旧宮家養子縁組を推し進める動きは、皇室の本質を歪めるものだ。愛子内親王が天皇に即位し、女性・女系を認めることでこそ、安定した継承が実現する。瑶子女王の自由奔放な振る舞いが批判を呼ぶ今こそ、皇室の在り方を根本から問い直すべき時である。国民の目は厳しく、皇族一人ひとりの自覚と、公正な制度設計が求められている。瑶子女王のこれまでの公務への貢献は認めつつも、中立性を損なう行動は慎むべきであり、家族間の確執を解消し、国民に寄り添う姿を取り戻すことが、彼女自身のこれからの課題となるだろう。遠い血縁の皇族が養子を通じて将来の天皇の祖母となり得る一方で、今上の直系である愛子内親王の子孫が排除される不条理は、決して看過できない。愛子天皇の実現こそが、真の皇室の安定と国民の信頼につながる道だ。
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