朴前大統領罷免に伴い支持者と反支持者の衝突!また国家権力による支持者への弾圧が起きるとロシア革命の2月革命にみられる単なるデモが他の労働者へも拡大し、韓国自体が崩壊し兼ねない。それにより革命的な国の動きに発展することである。-モコ

 

ロシア革命 -下記 wikipediaより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD

 

ロシアでは1861年農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝絶対専制ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。社会不安と急速な工業化の進展によってストライキの発生数は急速に増加していた。

日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公ウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。同艦に呼応した戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れたセヴァストーポリオデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで革命運動が盛り上がりを見せた。なおこの年の9月にはロシアは日露戦争に敗北している。

 

こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世十月勅令ドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。

1906年にドゥーマが開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺ロシア語版)(1911年)や第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。スト発生数はさらに増加を続け、1912年の2032件から、1914年の前半だけで3000件を超えるまでになった[2]

 

一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、1912年ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃(1915年 - 1916年)が伝えられるとその党勢を拡大していった。

第一次世界大戦はロシア不利のまま長期間に及ぶようになり、ロシア経済の混乱と低迷も一層ひどくなっていった。食糧不足が蔓延し、ストが多発するようになっていった。また、ドゥーマも皇帝の干渉に対して不満を表明するようになり、1915年にはカデットや十月党、進歩党など国会の4分の3の議員によって進歩ブロックが結成され、対立姿勢を強めていった。1916年12月30日には、宮廷に取り入って大きな権勢をふるっていた怪僧グリゴリー・ラスプーチンユスポフ公ドミトリー大公によって暗殺された。

二月革命[編集]

詳細は「2月革命 (1917年)」を参照

革命の勃発と二重権力の成立[編集]

1917年2月、抗議デモ

1917年のペトログラード・ソヴィエト会議

1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた[3]。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。

 

ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。2月27日、労働者や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれた[4]。一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。

3月1日、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備軍に対して「命令第一号」を出した。「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。

ドゥーマ臨時委員会は3月2日、カデットリヴォフを首相とする臨時政府を設立した。この臨時政府には、社会革命党からアレクサンドル・ケレンスキーが法相として入閣したものの、そのほかはカデットや十月党などからなる自由主義者中心の内閣であった。臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公は翌日の3月3日にこれを拒否し、帝位につくものが誰もいなくなったロマノフ朝は崩壊した[5]

ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命はブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。

四月危機[編集]

臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した。この声明は連合国側から歓迎された。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた。

 

ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の「戦争目的についての声明」(3.27声明)を発表した。「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」

ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた。ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を発送した。しかし彼は声明に「ミリュコフ覚書」を付し、その中で「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」と解説した。

この「ミリュコフ覚書」は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。ミリュコフ外相とグチコフ陸海相は辞任を余儀なくされた[6]。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキーのほかに、ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった[7]