シルヴァスタイン「ぼくを探しに」を訳した倉橋由美子氏。

氏の生前最後の翻訳作品が「星の王子さま」下差しだという。

王子の登場。

めったに"私" の質問には答えない王子が語る、王子の星の"気難しい花"のこと。

その花から距離をとろうとしたかとも思える星巡りをしてきて、地球での狐や蛇との出会い。

狐に教えられる "友だち" との関係は考えさせられる。

 

サン・テグジュペリも書いているように、"大人のために書かれた本" であり、

さらに倉橋由美子の訳者あとがきでは、 "大人が読むための小説" だとなるのだ。

図書館では、内藤濯訳「星の王子さま」は児童書高学年向き、扱いとなっている。

 

そして、何といっても秀逸というか強烈な「倉橋由美子氏あとがき」だ。

そもそもこの王子さまは、パイロットの『私』がサハラ砂漠で不時着して、孤立無援のまま死に直面した状況で出現します。ということは、『私』が死を覚悟したときに自分の中に発見した『反大人の自分』、大人の世界とは対立する本物の自分である『子供』が、王子さまの姿をとって現れたということです。ー略ー

しかし考えてみれば、『私』は砂漠で発見した王子さま、あるいは子供である自分と、いつまでも一緒にいるわけにはいきません。幸運にも飛行機の修理に成功し、『私』が死を免れて現実の大人の世界に復帰することになったからには、この王子さまを何らかの形で『処分』するほかないのです。ー略ー

とくに狐は、反大人としての立場を明確に説明してくれる哲学教師のような存在です。王子さまが一緒に遊ぼうといったときに、狐は、「君とは遊べない、自分はまだ飼いならされていないから」といいます。ー略ー

狐は王子さまに「飼いならしてほしい」といいますが、これは「自分を飼いならして愛人のような関係を結んでほしい」ということです。

王子さまが自分の星で面倒をみていた花も、実は同じような存在なのです。

 

内藤濯氏では "飼いならす" と訳しているが、倉橋氏では "仲良しになる” と曖昧に訳している。

つい、精選女性随筆集「倉橋由美子」小池真理子選に挙げられている下差し を思わずにはいられない。

わたしにはエッセイの文体で自己表現することはできません。いや、エッセイの文体で表現できる『わたし』なんか、そもそも存在しないというべきでしょう。存在するなら殺すべきです。わたしにとっては小説だけが表現の方法なのです。

 

明快かつ過激でもあるポリシー、本人の意向とはべつに、学生運動の志士たちから絶大な支持を得ていた理由が分かるのだ。

 

 

ヘビヘビヘビ

「星の王子さま」は内藤濯氏訳で読み、今回あらためて開いてみようと探したけれど、ずっと手元に置いていたはずだったのがどうにもみあたらない。ひょっとしたら娘のところへでも行っているのかも。。

その代わりに内藤濯「星の王子とわたし」が出てきた。いつの発行かと繰ってみたら昭和46年12月とあり、さらにご丁寧に購入した日付が 74'6 とあった。昭和50年だ。

「星の王子さま」には高校時代に出会っているから7年後ぐらいになるんだなぁ。