2020年に出された「茶室」を先に読んでいるリシャール・コラス氏のデビュー作(2006年)下差し

エールフランスのパイロットをしているいささか風変わりな父、愛情豊かで心配性でもある母、そして妹弟たちと嘗てモロッコで暮らしたこともある筆者。

写真好きな父の影響を多大に受け、彼も情熱的に写真の虜になっていく。

 

パリに住む彼らのもとに、アマゾンの奥地のインディオの村に住んでいる父の友人が訪ねてくる。この変わり者だが並外れた大人物である男に、一緒にアマゾンに来て写真を撮らないかと誘われる。バカロシア(大学入学資格試験)を受けて新学期が始まるまでの4ヶ月間という期間を。。

快諾し準備をしていくものの、心配するあまり激変する母の姿に、ついにアマゾン行きを諦める。

そんな彼に、父が言う。「なあ、滅びゆく文明、それはたしかに素晴らしい。だが、心臓が動悸を打つような文明や文化も悪くないぞ!」

中国かと聞く息子に「いや、中国は荒っぽすぎる。たしかに絵にはなるけれど。父さんが考えたのは、むしろ日本だよ!」

そうしてカメラマニアの息子が、念願のニコンのカメラを購入するためにも日本へやって来たのは1972年のことだ。

 

東京、芦屋と、素晴らしいホームステイを経て、ニコンのカメラも手に入れることができ、夜行バスで念願の広島へと向かう。

そのバスでアメリカに留学中のIと出会い、生口島出身のIの実家のユースホステルに逗留することになる。

そして夏祭りの夜に出会った茜との初恋。

 

 

35年後の現在、日本人の妻をもち鎌倉に住む企業のトップという立場にある彼の元に一通の手紙が来たことから、話が始まる。

小説としての展開は、「茶室」でも使われている35年後の現在と1972年を交互に見せてくる。

 

随所に氏の日本観が散りばめられる下差し

手紙を前にして

日本語で書かれた手紙は、<魂を映し出す、開かれた本>であり、だからこそ逆に、ひとは自分の魂を守ろうとして、平凡な日常という屏風の裏に魂を隠そうとするのだし、手紙における手抜きは不作法と見なされるのだ。

 

また最初のホームステイ先のA夫人の言葉(イギリス大使であったA夫人の父が厳格な職のかげに際立って個性的な性格を隠していたことから)

つまらない集団への順応、堅苦しい一様さといった覆いの脈石をこそげ取ってみれば、日本の男性の多くは秘密の庭をもっているのです。出る杭は打たれるということわざがありますが、この場合、杭は反対側に出ているのです。

 

茜との関係にのめり込む主人公にIが言う。

ひとりの人間の周りには、同心円を描く壁が何重にもなっていて、個人の<震央>に近づけば近づくほど壁は厚くなり、そこには誰も入り込めないーたとえ日本人同士であっても。ぼくら日本人は、他人との関係において恐ろしいほど表面的で、コミュニケーションの失語症患者なんだ。そもそも、ぼくらの言語はコミュニケーションの手段ではなく、自分の身を守るためのものだ。言語が一つ目の同心円で、もっとも手ごわいんだ。

 

 

読み終えてから、この小説が自伝的小説とされていることに驚いたのだ。

小説としての手法も、そして悲恋であることも、「茶室」と通ずるものがあるので、てっきりフィクションだとばかり思っていたのだ。

勿論、フィクション部分もあるのだろうが。。

 

ただ、「茶室」を読んだ時に検索した最近の筆者の様子が頭に浮かぶ。

50年のビジネス生活にピリオドを打ち、これからの人生を歩む前に3ヶ月間の京都暮らしをする氏、作務衣姿で座禅を組む姿はまるで雲水のようでもある。

「遙かなる航跡」を読んだ後に見るその姿に、人生の素晴らしさ、哀しさ、儚さも見る気がする。