ささめやゆき「グーテンベルグの時代に回帰して」に出てきたユトリロの逸話に唆られて、再読下差し

またまた、角田光代氏の前書き下差しに納得する。

作家には、完成型と成長型とがあると私は思っている。

 開高健は、完璧な前者だ。満26歳のときに発表した「パニック」はすでに開高健作品として完成されている。その翌年、「裸の王様」で芥川賞を受賞する。

そして、受賞前から「自身の内心によりそって作品を書くことはするまいと決心していた」。小説の中心を、自己ではなく社会に置く。

に、 "開高" 熱が再上昇。

 

本書の書き出しの章下差し

「何年も以前になるが、ある時期、人間がいやでいやでたまらなくなったことがあった。」

私の神経はあさはかにもろくなって、かすかな暗示にでもそよぎたった。文学書から遠ざかってよく画集をあれこれといそがしく繰った。

馬鹿にしていたユトリロもこの頃になるとどこからかもどってきた。

ユトリロの画にはかたくなな拒否の表情がある。しかし、それにもかかわらずどこかあどけないといっていいほどの透明なオプティミズムがあるのだ。

 

"開高健のパリ" とともに20点のユトリロ作品が載せられていて、その一つ一つに開高の解説が書かれているのが嬉しい。

その中のひとつ下差し

1910-1912頃の作、「モン・セニの街」

たそがれ時か。

陽がおちかけて街が焼ける。

壁がほんのり酔う。

道が微熱をおびた顔をだす。

ガス燈にまだ灯は入らないが、窓や店はもう眼を閉じはじめている。いつもの五人があらわれて佇んでいる。異変は起こらず、人はひっそりと息づいて病まない。

この平安、火のやわらかい匂いの流れる瞬間に幸いがあってほしい(開高)

 

人間嫌いなのに人間から離れられない開高、人間を拒絶しながら生への愉悦があるユトリロ。

 

 

此処からは蛇足になるのだが、、、

もっとユトリロの絵が見たくなり図書館でユトリロ画集を繰っていたら、母シュザンヌ・ヴァラドンの頁がでてきた。

自身で描き出す前にはお針子や絵のモデルをしていたこともあったというシュザンヌ・ヴァラドン。

上差しのルノワール「ブージヴァルのダンス」のモデルがシュザンヌ・ヴァラドンとあった。

驚くやら納得やらしたのだ。