エディジャパンが始動して、マオリオールブラックスに初勝利したり、この後もテストマッチが続くし、、、と、ラグビータイムを嬉々と楽しむアップmoclなのですウインク

 

少しばかり本に向き合う時間は減っているものの、やはりコチラも離れがたいものに違いはありませぬ真顔

、、、で、出かけた折に立ち寄る難波の丸善書店。

最近はもっぱら図書館本なのだけれども、やっぱり本屋さんには引き寄せられてしまう。

ずらりと並んでいる新刊書のなかに、たとえ一冊だけでも読んだことのある作家の名前を見つけると、嬉しいし、なんだか心騒ぐんだなぁ。

(まぁ図書館で出会う)初めての作家さん下差し

街中にある "大きな森" は原生林として丁寧に手入れがされている。

「森番」が一年中手入れをしているその森に、問題を抱えながら足を踏み入れる人たちが描かれる。

七個の短編なのだが、最終章の "森"と「森番」のものがたりが読む側に安堵をもたらしてくれる。

"自然"を護ること、"自然"と向き合うことは、そのまま"自然" を "自分"に置き換えられるように思う。

作者は北海道生まれのようであり上差しも北海道が舞台になっているのだが、この "森" が存在するのなら行ってみたいと思う。

 

 

 

例の如く、初めての作家さんの書架の前で選んだのが下差し

読み終えてから、この表紙絵がエゴン・シーレの「死と乙女(男と少女)」であることを知る。

ウィーン美術アカデミーで学んだとあり、2年後にアドルフ・ヒトラーが同アカデミーを不合格になっていたとあるが、そのことを以前にTVで観て驚いた。

と云うのも、そこにヒトラーが合格していれば歴史は大きく変わっていたことだろうと思うから。。

、、、と、本からは少し逸れました。

四半世紀にわたりオーストリアに暮らしていた兄優介が自死した。

「運が悪いこともあって進学でもずいぶんしくじっていた分、成人してからは逆に生真面目な堅いところが残っていた」と妹の奈緒は葬儀で兄優介を語る。

不良中学生だった優介はラグビーに出会う。一つのチームには国籍などの違いを越えて、いろんな連中が集まっていた。一浪して高校、そして大学とラグビーと共に進むが、彼が勝手に抱いていた理想(コスモポリタニズム)とはかけ離れていた。

そして彼は外務省在外交換派遣員の試験を受け、大学を中退してウィーンへと渡ったのである。

日本人の父とブルガリア人の母を持つ職場の先輩である女性に出会う。

おそらくは生きる場所を異郷として意識せざるを得なかった女性と、四半世紀にわたり暮らしを共にするが、26歳の歳の差もあり彼女が癌で亡くなる。

居場所を探し求めつつも、彼女を埋葬した墓に入ることになる優介。

棺の中の優介の姿は、まるでエゴン・シーレが描いた絵(風景画)のようだと奈緒は思う。

まるで優介自身がウィーンの風光の一部になっているようだと。。

 

 

 

なんだか、タイトルに惹かれて下差し手にとったのである。

ドラマなどで、道を外してしまった人が言う台詞に「これからは、まっとうな人生を歩みます」というのがあるよなぁ〜ぐらいの軽い気持ちで手にとったのだった。

軽妙な語り口がオモシロいのだが、主人公は双極性障害を抱えている。

双極性障害というと、moclのなかでは10年ほど前にハマって観ていたアメリカのドラマの「HOMELAND」のキャリー・マティソンの強烈なイメージが浮かんできてしまうのだ。

しかし上差しの「まっとうな人生」では、博多から結婚して富山に住むことになった花ちゃんの話なのだが、ちょうど記憶に新しい "暗黒のコロナ時期" なのである。

自分の内側の病とのつきあい、家族とのつきあい、地域の中での存在、そして嘗ての闘病時代の仲間である "なごやん" との再会、、、それらが "コロナ時期" のなかで転がったり、足掻いたりしながらも、軽妙に綴られる。

 

これまた何時ものことだけど、読後に知ったのが「逃亡くそたわけ」と云う作品の続編にもなるらしい。"なごやん"との脱走ストーリーだそうで、これはかなり面白そうなのでは〜とさっそく予約したのである。