長めのメモをする場所がここか。


 最近というか、去年後半くらいから壇蜜さんの勢いがすごくて、新聞にいつも広告を出す週刊誌ポストと現代の両紙とも載っていたりして驚くばかりか、映画にテレビに登場。「エッチなお姉さん」と自ら規定してそのキャラで色々話を聞かれている。
 これを見て思い出すのが数年前同じくすさまじい勢いだったグラビアアイドルの吉木りささんで、彼女もグラビアの載る雑誌(週刊だが週刊誌とは呼ばれない、マンガ誌など)複数に同時に登場して表紙を飾るなどしていた。(それから最近だと篠崎愛さんも同時表紙は結構見たか。)

 この、お二方のお仕事を拝見して思うのは、というよりも感じるのは、まずドエロいということだが、気になるのはその「ドエロさ」を、テレビ等の「タレント業」においても求められるのか否かの差なのだ。それは「エロい」をタレント性の核に据えようとするかどうかの、プロデュース側の考えでもあるのだろうが。

 あるいは、グラビアアイドル=若い、においては「エロい」は「若くて美しい」の副産物であるのか?

 吉木りささんのイメージDVDを見ると、相当にエロを意識した衣装、ポージング、カメラワークである。出世作『セキララ彼女』も、その他も。まあセキララ彼女が先鞭を付けて以降がそれに倣ったのかもしれないが、ともかく爽やかな可愛いアイドル、でなく、エロいお姉さん路線であるのは明白なわけで。しかし、テレビタレントとしての売り出しはセクシー路線でなく、その高い声のせいもあるのか、けっこうアホで素直な人というような感じだった・・・? いや実は、俺は、出演番組ほとんど見ていないからわからないのだが。

 それと共にひとつ浮かぶのが、テレビなどで「エロいですねー」と、視聴者・・・という製作側の仮想・・・と共有できるようなエロさの質はどういったものかということだ。未亡人的・退廃的エロスの壇蜜さんと、スレンダーの吉木りさ。巨乳であれば、「巨乳ですねー」「見てください!」「雪路ちゃん、そのボイーンとしてんのなに」などわかりやすい。しかし吉木りさのエロはどうにも、受け手の中で醸し出されてくるエロであり、対象化して外部に置いて眺めづらい。それを集団で「エロいもの」として眺めた時のエロは、実は壇蜜のエロを凌いでしまうのではないか。
 表に出ているものは「キレイ」であるのに、それを「エロ」として見つめてしまう。表面から一歩一段、奥に入るルートを集団でとる。それはエロへの谷。吉木りさのエロ路線テレビ化にはそうした問題があったと考えた。

 また思うのは、よくダイヤモンド社などが実用書と呼ばれるものを出しているが、「実用」という面でいくのならばバウハウスやコアマガジン社こそが実用書籍の出版元であるということで、そうした意味での「実用」、その「実用」的エロが壇蜜であり、また吉木りさは言うなれば「嗜好」の側にあるということである。実用対嗜好の図式に於いて、実用の方が最大公約数に近く、伝わりやすく、誰にでもエロである。また、どう見てもエロである。中年男性向け週刊誌はこれを志向し、「嗜好」たる吉木りさは恋心もやや混じりつの青少年の側に置かれる。「キレイな人だねえ」と呼ばれるのは吉木りさであり、そこからエロを汲み出すのが嗜好者であり、「なんだかいやらしそうな人だねえ」と呼ばわるのが壇蜜であり、それは誰にでもいやらしいのである。

 って、そんなにグローバルなエロを持つというのは大変な能力だ。
 まとめようと考えれば、壇蜜はエロくて綺麗な人。吉木りさは綺麗でエロい人・・・・・・ではない。なにかその言い方では淫乱を思わせる。吉木りさは人格に於いてエロを吹聴していない。やはり綺麗なもの、それがなかなかにエロへ傾いた様子をしているのを見て、エロが生まれている。

 結局、人格にどれほどエロを纏うかということか。それだけ、か?
 
エロにおける「実用」的人材と「嗜好」的人材という区分けはもう少し考えたい。

 こないだ知り合いの、映像と生身が混淆した舞台というかダンス作品を観て気になっていて、何が気になったかというと、あまり俺はその出し物がよく出来ているとは思えなかったのだけど、ではよく出来ている映像・生身の混淆舞台ってどんなものか、俺は観たことあるのかしら、規範とか理想みたいなものってあるかしら、と、考えつつ気になっていた。

 映像を使った舞台で思い出せたものは、吹越満さんの『フキコシ・ソロ・アクト・ライブ』シリーズ。これはしかし映像というより文字がスクリーンに出ていることが多いか。がっちり映像なのは「昭和六畳一間一人暮らしバレエ」(『タイトル未定』に収録)ぐらい?

 それから、一度だけ観たことのあるNibroll、『THIS IS WHATHER NEWS』。これは・・・ダンスで・・・どう映像を使っていたか、忘れてしまった。
 そう、そこよ! ダンスを、ちくとも記憶できないんだ俺は。そこからすでに弱ヨワだということがわかる。よく、知り合いにダメ出しなどしたもんだ。失礼だよ。

 他には、知り合いの舞台は二回観たのだけど、一回目と二回目の間にハイバイ『霊感少女ヒドミ』を観ることになった。これはガッツリ映像を用いた演劇で、上演一時間のうちけっこう映像のみの部分もあった。もちろん俳優のアクトと映像が絡む所もあり。これ、面白かったなあ、というか、話の物悲しさが好きだった。

 で、ポイントというかわかりやすい区分けとして「きっかけ(オペの操作するところ)が多いか」「アクトと絡むか」というのがあると思う。というか、知り合いの舞台と分かりやすく分ける・・・映像の使い方を入口近くから考えると・・・そこから、という。知り合いのはダンスで、曲がずっと繋がっているので映像もそれと同調して、多分オペ操作は途中なかったろう。そしてアクトとの絡みは多かった。
 吹越さんとハイバイは(これ映像製作がどちらもムーチョ村松さん、同じなのだけど)きっかけが多そう。特に吹越さんはタイミングがシビアだろう。「昭和一人暮らし~」は流しっぱなしだが・・・曲があるとそうなるか。

 うーん。

 なにから考えればいいのか?

 映像の使い方、映像によって制限されがちな体、というようなこと・・・。
 ハイバイ『ヒドミ』は演技の形態を(たぶん普段のハイバイとは違う)シュールコントの一派のような、体の活力を抜いた様式的なものにしていて、それで、制限されてる感は薄くなっていたのではと思う。ただ、もっとシュールコント的なうまさがでたら(少なくとも俺の観た回はもったいない感じのシーンがあったので)笑いが増えたかと。

 うーん。

 つづく。知り合いのグループは今回限りだと言うが、それじゃ、だめなんじゃないの、と思うからなぜだめか、考える。
 書いてみるとえらく、今日嫌な事があったのかな? て感じだけどそうでもない。考えようとして何かを考えるとこんな文章になってしまう。


 活動さえしてればいいじゃないか、動けばその中で考えは必ず促されるし、そうして何かに触れてぶつかって出会って、それで促されていくのじゃないか、と思った時もあるが。そんなことは考えの生まれるひとパターンでしかなくて、他にもさまざまな動き、思考への動きをしなくてはだめだよ、とやっぱり、後者の考えだな、今は。

 もちろん、活動的なのがいいこと、なのはわかっているが、他人から見た意見ですよねって感じがしてきたというか、活動的であることによって促進された、よきこと、に向かうもの、その方向は、世の大勢=他人、にとって私のよきことではあるだろうが、私にとってどうかは知らない。っていうか、私の精妙な理想なんて私自身だって分かっていない。それをば、最近、彼、君、輝いてるよねー。でうまくいったことにされてはたまらない。

 どこにむかいたいのだ。自分がいい感じ、自分の周りも良い感じ、幸せです、ハッピー、みんな笑顔。そんなコミュニティ。そりゃあ、嬉しい。でも芸能ってのは、もっと突き抜けて時空を歪めなければけないからね。という、その時空歪め説というのが私、の理想なわけだぜ。元気に活動してるのが一番! の方に、時空歪め説をお持ちの方はいるだろうか?

 また、篠崎ひめさんの例が出るが。
 あの、通常はどう芸歴を積んでいっても辿りつかない異質さ、というものが芸の世界には存在しているわけだぜ。芸の世界だけではないかもしれない、これから考えていけば、それは、わからない。そう、ともかくそうした形、周りとのありようを私は見ました。個人だけの話ではなく、その人の属する場、同じくことを行なう人と、その人との異様な違い。天才だと思いました。初めて見たものだったからです。これまで見てきた凄い人、とは様相の違う凄さで、だから天才という言葉・形容を選んで使うことになったのです。

 保坂和志さんという小説家、この人も思考の面白さがものすごい人で、いつも本を読むと読む前の生活のモードから離脱してしばし保坂モードになる、しかし保坂モードは定着せずいつの間にか戻ってしまい、また次に読んだときにああまた忘れていた、とやきもきする。ともかく、その保坂さんが『書きあぐねている人のための小説入門』という本で、文脈も言いまわしも詳しい内容も忘れたが書いていたことには、「そんな程度では努力と呼ばない」ということで、努力というなら、結果の見えないものに入っていくことだ、とかなんとか。
 先人とか、まことしやかなハウトゥー本やカルチャーセンターは教える。教えるが、そんなところに自分の本当に向かいたい先はない。向かいたい場所へ努力、というなら、自分で切り込んでいくしかない。そういうこと、か。

 豊穣がほしい。くめどつくせぬほうじょうがほしい。それは、どうすればえられるか、そんなそうぞうはできない。できない、きりこんでいくしかない。そういうことか。

 そういうものだ。と、それは『スローターハウス5』の言葉。


 こんな文章になってしまった。
 まだストリップ。

 篠崎ひめさんのことを忘れない。なんて、言わなくとも忘れるわけはないのだけど、オレさんのブログ(『オレとその状況』)で触れられた通り、ひめさん自身はインターネット上に痕跡を何も残していない。ブログも、ツイッターもしていなかった。昨年初めに行なわれた写真撮影会(それ自体驚きのイベントだったようだけど)の後にとられたコメント動画30秒程度がYou tubeにあがっているくらいだ。貴重だよ。

 ぼんやりと考えていたら、なぜか山口百恵さんに行きあたって、というのも、スパッと引退してその後のことが知れないという存在は、なんだかそこまで遡らないと出てこなかったのだ。もちろん他にもいるだろう、俺がひめさんをもっと広めたいと焦ったように、これまでも無数に凄い人がいて大勢を魅了してそれでもマスメディアに乗らず引退していった。マスメディアに乗らなければ「あの人は今」にも乗らない。

 そう、「あの人は今」だよ、問題は。それと、カムバック。

 普通の女の子に戻りたいと言ったキャンディーズは、個々が元気に活動している様子からしか俺の年代は知らないし・・・と、これを例にすると田中好子さんを悼む輪の巨大さに触れなければいけないけれど・・・(※それと、ミキちゃんは俺の年代にはもう芸能界にはいらっしゃらなかった。よく知らないで書くものではありません。すみません)、ともかく、現代においておそろしくアイドル=偶像、幻想、ファンタジーな存在だった篠崎ひめさん、なのです。
 今年に二度目の観劇をして、それからの数回・・・一回に何度か出番を観るから数はややこしいけど・・・の観劇はずっと、この人の正体は何なのか? を考えていた。私生活というか、プロデューサーの存在があるのではというのか、なにか、自分の知っている世界の範囲内に着地させられる糸口を探していたような。
 こんな凄い人、いるわけないじゃん!
 という思いだったわけだ。何かタネがあるはずだ、と思っていたのだ。もちろん大尊敬したうえで。・・・うえで、それでも、「何なんだろう?」という考えには、やはり自分の分かる領域へ引っぱってこようという考えがあったと思う。ひめさんの方へ引っぱってほしいという願いもありつつ。

 最後のポラ撮影で、「今後の活動については秘密ですか?」と俺は訊いたんだ。訊いたんだと思う。発音、できてたと思うんだけど、ひめさんは、、、まあとにかく答えは得られなかったわけです。急にキャラの濃度が上がった、と感じた。最後の最後にまたストレートパンチをくらってしまった。正体不明が決定的になってしまった、と。

 でもその後、答えはお客さんの一人から頂けたのだった。別に秘密でもないですよ、と仰っていたのだった。答えが知れて大変嬉しかった。

 と同時に、これで、謎が二重になってしまった。
 俺の発音がひどかったのでなければの話だが、あの濃度変化は何だったのだろう?


 だからね、こんなこと考えちゃう存在だってのが凄いわけだ。あれだけ近くで客と触れあっていて、それでこのわからなさだ。


 それで、「忘れない」っていうのはこうしたことを書きたかったんじゃなくて、

 昨年9月に観たひめさんの舞台を、今年の5月ごろに、ふ、と思い出して(だったか?)、それは芝居の稽古場に向かう途中で、自転車で信号待ちをしていたのだけど、あれは思い出してもやっぱ凄かったよなあ、と感じ入って、あれ以降も同等の衝撃を受けてはないしなあ、いやそんな比べなくともあの一回で十分価値が不変なのはわかるじゃないか、やっぱりまた観に行かないとなあ、ほんと、自分の表現活動とかくそだわー、とか考えが巡っていて、そして、その時に信号が青の方の車線をゆっくりと、おれを軸にするくらいな近さで左折していったバスに知り合いが乗っていて、後に、
「全然気づかないんだもん」
 と、言われた。

 それくらい思い出していたのだ。
 そういうものだ。
 今年の6月20日に篠崎ひめさんを人生二度目、見て、そして今まで追いかけて、それでストリップはすっかり自分の中に定着したのだった。
 今日も、浅草ロック座の休憩中に流れる映像にひめさんが映り込んでいると聞いて、行こうかと思っていたくらいだ。
 11頭(これも界隈の用語)の池袋ミカド劇場は、これはもう、行くだろう。御幸奈々さん、虹歩さん、そして今年いっぱいで引退の早瀬みなさんがご出演なのである。皆さん多分、15年以上の芸歴の方々。この香盤を知って、すごい! と思うと共に、おそろしい! とも感じた。
 どうも、やはり芸人の世界として親近感を持って俺は見ているんだろう。あれだけお客さんと近く、そして一人で舞台を務める、芸の世界。尊敬してはばからない。
 本当にはばからない。
 ストリップストリップ言って、けっこう引かせてきた。

 それでも、ストリップ、いいんですよ。いいんだよ、いい。
 正直に言って、篠崎ひめさんを観るときのような、あの、この世を突き抜ける感じ? っていうか、天才じゃねえかーっ! と叫びだしてどうにか遣り処を見つけないとしゃあないみたいな、これなんだ、なんなんだこの人は、え? え? え? マジ? やらせ、とかじゃなくて? テレビが仕組んださあ、ってどういうからくりだよ、うわー、すごーい、天才じゃねえかーっ

 みたいな、ほどの感動には出会わないと思うのだけれど、でも今の方がひめさん初見よりもずっと俺の中での「ストリップ」が地に足着いたものになってきたわけで、そこで生まれてくる感動はまた素晴らしいものです。

 また、ミカド劇場の件の香盤には小沢アリスさんもご出演で、この人を観にストリップ劇場へ行ったからこそ、ひめさんを知ることができた。そうしたわけで、恩人なんだな。恩人かあ、でもお礼言っても、はあ、そうなんですか、となるだろうし・・・
 なるのだろうか?
 ひめさんとは共演してらっしゃるし、ブログで、悩んでたら頭なでてくれた、みたいなこと書いてらしたよな。


 それは、まあおいおい考える。

 ちょっとブログを更新したかっただけなのだ。

 頭の中はストリップばかり。今日も、ひめさん使用の曲を一つつきとめた。嬉しい。