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11月5日(木)、千葉県浦安市文化会館で、
市の職員を対象にしたヤングケアラー支援講習会
が開催され、わたし達が制作した映画『ツナガル』
を上映しました。
支援職以外の市職員の方々も数多く参加されて
日常生活ではあまりイメージしない
「家族をケアすること」について
グループで議論を交わす良い機会となりました。
自分を「認知症のある祖父の介護をする高校生」
とイメージしたグループでは
「その介護はいつまで続くと思いますか」
という問いに対して
「祖父が亡くなるまで」
という答えが返ってきました。
これは、自分の気持ちを横に置いて
事実を基に物事を見た時の客観的な視点です。
これをケアラー視点で捉えると
「おじいちゃんが生きている間はずっと」
という主観的な捉え方(当事者意識)になります。
自閉症のあるお兄さんがいることを想定した
グループでは、
「お兄さんの世話をすることで何ができなく
なりそうですか」という問いに
「生まれた時から自閉症がある兄を見守ってきたから、
自分が友達と同じようなことができないことは
当たり前。別になんとも思わない」
という答えが返ってきました。
家族なんだから世話をするのは当たり前だという時に使う「当たり前」は、「世話をするべきだ」という客観的な意味ですが、この回答の「当たり前」は「特別変わったところがない平凡な状態」という主観的な意味です。
家族のケアを主観的に捉えることは、
ケアの原動力になります。
しかし、主観的になり過ぎると
ケア対象者と自分との「境界線」が曖昧になります。
相手の苦しみを自分の苦しみのように感じたり
『ツナガル』の主人公のように
「自分がやらなければ」と抱え込んで孤立する
可能性があります。
家族のケアを客観的に捉えると
自分の人生を守るためにはどうしたらいいのか
と俯瞰して物事を考えられるようになります。
しかし、これが行き過ぎると自分は冷たい人間だと
自責の念に駆られたり罪悪感を抱いてしまいます。
家族を想う気持ちは主観的なままで大切にしながら
自分の人生の分かれ道で選択に迫られた時には
受援力を身に付けて客観的に行動できるように
若いうちからトレーニングを重ねることが
とても重要です。
主観と客観をうまく使い分けながら、
自分らしい本来の生き方を歩む人が世の中に増える
ことを目指して、これからも活動していきます。





