美香は優一と別居して、沙織と暮らし始めてから少し経った頃、本格的に心と体が壊れてしまった。

 

ずっと抑え込んでいた怒り、麻痺させていた感情、しまい込んでいた恐怖、何をしても無駄という無力感、屈辱的な扱いを受けた悲しみ、期待を裏切られた絶望感、大切なものを捨てられた時の軽んじられた気持ち、自分には価値がないと言う気持ち、自分が悪いんだという罪悪感、どうしてもっと離れなかったんだろうという後悔、沙織への罪悪感、普通の家庭を作れなかったという自責の念、これからの生活への不安、今でも不可解な連絡をしてくる優一への恐怖、自分を守れなかった後悔、みんなと同じにできない自責、自分のやり方が間違っていたんじゃないかという疑念、沙織をひとりで育てていけるかという不安、耐え続けた自分への怒り、美香を傷つけ続けてきた優一への抱えきれないほどの怒り。

 

すべての感情が一気にあふれ出し美香の手には負えなかった。

 

頭痛、吐き気、腹痛、背中の痛み、めまい、耳鳴り、下痢、じんましん、かぶれ、発熱。

身体的な症状も絶え間なく続いた。

 

美香は完全に壊れてしまった。そして沙織も

 

  離れる準備を始める美香

 

「これ以上ここにいても、もう無理だ……」

 

そう自分に言い聞かせるように、美香はパートの仕事を探し始めた。体調は決して良くなかったが、それでも行動を起こすしかなかった。

 

今の生活から少しでも逃げ出す方法を見つけない限り、彼女自身が壊れてしまうと分かっていたのだ。動き出さなければ、未来はもっと暗いものになる。

 

何度も求人情報をチェックし、これまでのスキルを活かせそうな求人が目に留まった。「これなら私にもできるかもしれない」美香はそう思い、応募することを決めた。パートという立場だったが、彼女にとっては大きな一歩だった。

 

  優一にバレないように住む場所を探す

 

無事に仕事が決まった美香は、パートの仕事をしながら、優一から離れる準備を始めた。いろいろな人に相談し、助言をもらい、住む場所を探した。優一に知られないように、細心の注意を払いながら、美香は忙しく動き回った。

 

自分の未来、そして沙織のために、どうにかしてこの状況を乗り越えなければならないと、必死に心に言い聞かせた。

 

  優一はユーチューバーになる

 

そんなある日、優一は「俺、ユーチューバーになるわ」と突然宣言し、仕事に行かなくなった。

 

 

  今すぐ10万円準備しろ

 

夕暮れ時、優一が仕事から帰ってくる音が聞こえると、美香の胸にはいつものように重苦しい不安が押し寄せた。ドアが開く音、乱雑な足音。そしてリビングに入るなり、怒鳴り声が響いた。

 

「今すぐ10万円準備しろ!」

 

美香は一瞬、状況が把握できなかった。突然の要求に戸惑いながらも、彼女はできるだけ冷静に聞き返した。「いつまでに必要なの?」。それは、ごく当たり前の質問だった。しかし、その問いは優一をさらに逆上させた。

 

  そんなんでは社会でやっていけない

 

「おまえは、【はい】と【わかりました】だけ言っていればいいんだよ!」

と、さらに声を荒げる。

 

「よくそんなんで仕事してきたね。」

「そんなんでは社会でやっていけない!」

 

その言葉が胸に突き刺さった。美香は、ただ立ち尽くすしかなかった。

 

彼の言葉は鋭く、容赦なく美香の心を切り裂いていく。彼の目には、自分が何もできない無力な存在としてしか映っていないのだと感じた。

 

  何をしても、優一は決して満足しない

 

彼女がどれだけ努力し、家庭や仕事に向き合ってきたかは、全く意味がない。

 

彼にとって美香の存在は、ただ従うべき対象でしかないのだ。

 

「こんなに言われなきゃいけないんだろうか?」という問いが美香の心の中に浮かんだ。自分はなぜ、ここまで耐えているのだろう。優一の言葉はいつも彼女の尊厳を奪い、心を深く傷つけてきた。

 

だが、それでも美香は家族のために、沙織のために、この場所に留まっていた。それが唯一の正しい選択だと思い込んでいた。でも、今日は違った。今日は、もう限界だと感じた。

 

  生きているのがつらい

 

美香は、胸の奥から込み上げてくる絶望感に耐えきれなかった。「生きているのがつらい」と、自然にその言葉が頭をよぎる。

 

自分はこの先も、ただ「はい」と「わかりました」だけを言い続けるのだろうか。

 

どれだけ頑張っても、それが優一には決して届かないのなら、自分がここに存在する意味はどこにあるのだろうか。そんな考えが、美香の心をますます重くしていった。

 

 

  料理も作っていた優一

 

美香は、沙織が生まれる前の優一との生活がいかに満ち足りていたかを、今でも鮮明に思い出せる。二人は共に正社員で働いており、忙しい日々だったが、それがかえって二人の絆を強くしていた。

 

残業で帰りが遅くなった日には、優一が夕食を作って待っていてくれた。キッチンには優一が作った料理の香りが広がり、食卓には整えられた夕食が並んでいた。洗濯物もきちんと畳んであり、掃除や買い物までも、彼は当たり前のようにやってのけた。

 

「二人でやっていけるよな」と優一が微笑んだ時、未来への不安は一切なかった。美香も同じように思っていた。出産で一度仕事を辞めることになっても、沙織が2歳位になれば、また優一と協力して仕事に戻れると思っていた。

 

彼となら、どんな困難も一緒に乗り越えられる、そう信じていた。

 

  沙織が生まれて豹変

 

しかし、沙織が生まれてから、優一はまるで別人のように豹変した。最初は小さな苛立ちからだった。「なんでこんなに家が散らかっているんだ?」「お前は何をしているんだ?」と、彼の声がいつもより冷たく響いた。

 

美香は沙織の世話で疲れ果てていたが、「自分がしっかりしなきゃ」と自分を責めた。育児に忙しく、思うように家事が進まないことを、優一に申し訳なく感じていた。

 

次第に、優一の怒りは激しさを増していった。些細なことで声を荒げ、理由もなく怒鳴り散らすことが日常になっていった。美香は、「私がもう少し努力すれば、彼はまた元に戻ってくれるはず」と自分に言い聞かせていた。

 

  優しいときほど怒り出す

 

でも、優一は決して戻らなかった。それどころか、時間が経つにつれて、彼の嫌がらせは増えていった。彼は美香を安心させたかと思えば、突然傷つける言葉を投げかける、その繰り返しだった。

 

たとえば、美香が「今日は優しいな」と思った瞬間に、急に苛立ちを爆発させ、彼女を罵倒する。そのパターンが定着し、優一の怒りがいつどこで爆発するか、美香は常に怯えるようになっていた。

 

美香がそのことに気づくまで、時間がかかってしまった。「私が悪いのかもしれない。私が変われば、あの優しかった頃の優一に戻るはず」と、彼女は何度も自分を責め続けた。

 

  それが優一の本当の姿

 

でも、本当の優一は、沙織が生まれる前の優しい夫ではなく、目の前で些細なことで怒りをぶつけてくる今の姿こそが本物だと、徐々に理解していったのだ。

 

その事実を受け入れるのは、辛く、長い道のりだった。

 

 

  優一の罠

 

あるとき、リビングから優一の声が聞こえた。

 

「沙織、窓の外にネコが見えるよ。」

 

その声は、一見優しい父親のものに思えたが、美香の胸には、得体の知れない不安が広がった。彼が家で見せる“優しさ”は、いつも不安定で脆かったからだ。

 

沙織が嬉しそうに窓の方へ駆け寄る音が聞こえる。

 

「パパ、ネコなんていないよ。」沙織の無邪気な声が続く。

 

  理由もなく沙織をたたく優一

 

その瞬間、リビングが不気味な沈黙に包まれた。

 

「俺が嘘をついたって言うのか!」

 

突然、怒鳴り声が響き渡り、同時に鈍い音が聞こえた。

 

美香は瞬時に心臓が縮むのを感じ、慌てて駆けつけた。

 

「どうして沙織を叩くの?」

美香は冷たい声で、かすかに震えながら言った。

 

彼女の体は怒りで硬直していたが、心の中では恐怖が渦巻いていた。優一が沙織に手をあげるなんて、これまでは考えもしなかったことだ。だが、今、目の前でその現実が起こっている。

 

  怒鳴り続ける優一

 

 

「俺がどれだけ仕事で大変なのか、わかってるのか!」

 

優一の声がさらに大きくなり、美香の抗議に逆上していた。彼の顔は赤く、目は狂気のように光っていた。

美香はぐっと拳を握りしめた。沙織を守らなければならない――その思いが胸を強く打ち鳴らしていた。しかし、どうすればいいのか、どこへ行けばいいのか、頭の中で答えが浮かばなかった。

 

  美香の無力感

 

「私はどうするべきなんだろう?」美香は自分に問いかけた。家を出れば、沙織は一瞬でも安全になるだろう。しかし、これまで何度も「家を出るべきだ」と感じながら、結局決断できなかった理由が、また頭の中で囁いてくる。

 

「どこで暮らせばいいのか」「お金はどうするのか」「優一がもっと怒ったら、どうなるのか」――恐れが鎖のように彼女を縛りつけていた。

 

美香は何度も深呼吸をしたが、そのたびに体は震え、決断できない自分への無力感が押し寄せてくる。「沙織を守らなければ……」だが、その強い決意は、彼女の心の中で一瞬輝くものの、次の瞬間には不安や恐怖に押しつぶされ、ぼやけてしまう。

 

  沙織の着替えを邪魔する優一

 

優一の沙織への嫌がらせがエスカレートしていく中で、美香の心は限界に近づいていた。沙織がトイレに行くたびに、優一はドアをノックしたり、しつこく話しかけたりして邪魔をする。

 

着替えの時間も同様で、沙織が嫌がっているのにもかかわらず、わざと邪魔をし続ける。さらには、沙織がいる前で自分の下着を見せるように着替えたりと、行動は日に日に悪化していった。

 

美香は何度も注意したが、優一は聞く耳を持たない。沙織の困惑した表情を見るたびに、美香の心は痛んだ。しかし、どうにかしなければならないという決意が、彼女の中で強くなっていった。

 

  美香の対策

 

ある日、ついにその時が来た。

沙織が学校から持って帰ってきたパンフレット。それは家庭内での問題について子供が自由に相談できる場所を紹介するもので、学校の先生も関与するケースが増えているという内容だった。

 

美香はそのパンフレットをじっと見つめた。これが自分の最後の手段になるかもしれない、そう思った。その夜、美香は優一の前にパンフレットを差し出し、静かに話しかけた。

 

「沙織はおしゃべりだからね」

「家のことを全部学校の先生に話してしまう。」

 

優一は最初、鼻で笑っていた。

 

しかし、美香の目には今までにない強さがあった。

 

「あなたがしてることが先生に知られたら、どうなると思う?」

 

その言葉には、脅しが込められていた。

 

  一時的に嫌がらせが落ち着く

 

優一は黙り込んだ。しばらくの沈黙が続いた後、優一は何も言わずに立ち去った。その日から、少しの間、彼の沙織への嫌がらせは止まった。

 

美香はほっとしながらも、自分がどれだけ限界まで追い詰められているのかを感じていた。自分の家庭を守るために、脅しのような言葉を使わなければならなかったことが、心の奥底で深い罪悪感を生んでいた。

 

 

  優一と距離を取る美香

 

優一に叩かれてから心の中にあった何かが崩れた。美香は彼の言葉に即座に従うことはしなくなった。今では、「あとでね」とか「う〜ん」とか曖昧に返すだけ。

 

優一は相変わらず日々の些細な出来事に怒りを爆発させては、訳もなく怒鳴り散らしていた。美香はそれに対して何も感じないよう努めていた。できるだけ心を守るために。

 

だが、それでもその無意味な嫌がらせや怒声は、心に静かな傷を残していく。

 

  沙織への嫌がらせが増える

 

そして、次第にその影響は沙織にも及んでいった。

 

ある日、優一が「パパと一緒にゲームで遊ぼう」と声をかけた時、沙織は目を輝かせて「やるやる!」と喜んで準備を始めた。

 

ゲームの準備をして、パパとの遊びを待ちきれない様子だ。

 

  ゲームに誘ったのに寝る優一

 

しかし、ゲームが始まるや否や、優一はすぐに眠ったフリをした。

 

笑っていた沙織の顔が、みるみるうちにしょんぼりと曇っていくのが、痛々しかった。また、沙織を傷つけるようなことをしている。それでも優一は何事もなかったかのように眠ったふりを続けている。

 

沙織は「パパ寝ちゃった…」と悲しげに言った。その声には、かすかな失望が滲んでいた。美香はどうしようもなく、沙織に微笑んで、「じゃあ、ママとゲームしようか」と言った。沙織は少し元気を取り戻し、母親との遊びに夢中になった。

 

  テレビを見始める優一

 

しかし、そうして遊び始めた途端に、優一が突然目を覚ましたかのように動き出し、テレビを見始めた。まるで沙織から解放されたかのように。

 

その瞬間、美香は理解した。これもまた、彼の一種の嫌がらせなのだと。

 

  楽しい時間を壊したい欲望

 

美香が沙織と楽しい時間を過ごしている時に、優一はそれを壊すことで、彼の存在感を誇示しようとしているのだ。彼の行動は、ただの気まぐれではなく、彼女たちの小さな幸福さえもコントロールしたいという欲望の表れだった。

 

沙織がまだ小さい今、何とかして守りたいと思う気持ちはあった。しかし、そのためにどう行動すべきか、何が最善なのか、途方に暮れていた。

 

 

  モラハラ

 

美香はインターネットを開き、「モラハラ」「DV」と検索を始めた。薄々感じていた不安が確信へと変わる瞬間だった。

 

彼女はこれまで自分がどれほど傷つけられてきたのかを言葉で説明できずにいたが、目の前に現れた情報が、ずっと見えなかったものを鮮やかに浮かび上がらせた。

 

彼女は一気にモラハラやDVに関する本を数冊注文し、毎晩遅くまでページをめくった。優一の怒鳴り声が耳にこびりついて離れなかったが、その理由が次第に分かってきた。

 

  ただのストレス解消

 

彼が怒鳴るのは、美香に怒っているからではなく、ただ自分の中にたまったストレスや不満を吐き出すためだった。怒りの理由はどうでもよく、どんな些細なことでも美香を悪者にして、言葉の刃を向けていたのだ。

 

本の中に書かれている「モラハラ加害者の特徴」の項目を読み進めるたびに、優一の姿が浮かび上がってきた。「些細なミスを過剰に責め立てる」「被害者を孤立させ、自信を奪う」。そこに書かれている一言一言が、まるで美香の日常そのものだった。

 

  言うことを聞くのがバカらしい

 

「何をしても、どうせ怒鳴られる…」

 

そう思った瞬間、何かが音を立てて崩れ落ちた。それまで必死に優一に気に入られるように、怒られないようにと自分を押し殺していた美香が、その虚しさに気づいたのだ。もう、彼の言うことを聞くことが馬鹿らしくなっていた。

 

ある日、優一がまた何かを言ってきたが、美香はただじっと彼の顔を見つめていた。彼が言葉を投げかけるたびに、心の中で「どうせ怒鳴られる」とつぶやく自分がいた。

 

  優一と話すのも面倒

 

反論する気力も、取り繕う気力も消え失せていた。ただ、静かに彼の言葉をやり過ごすことができるようになっていた。

 

そうして、少しずつ美香は優一と話さなくなっていった。沈黙の中で、彼女は自分を取り戻すための第一歩を踏み出していたのかもしれない。

 

  美香と優一でスーパーへ

 

その日、優一とスーパーに出かけた時、いつもと違う緊張感があった。優一の機嫌は出かける前から不安定で、美香は慎重に彼の表情や言葉を観察しながら、一日を無事に過ごせるように心を配っていた。しかし、それでも予想外のことが起こるのだった。

 

  優一はセルフレジで苛立つ

 

スーパーのセルフレジで優一が操作を始めた。しかし、突然「バーコードを読み取らない!」と苛立ちを露わにし、声を荒げた。優一の叫び声に、他の客や店員の視線が集中する。

 

  美香は慌てて手伝う

 

焦った美香は、とっさに「手伝わなきゃ」と感じ、優一の持っていた商品をセルフレジに通した。特に問題はなく、バーコードは読み取られた。

 

  「余計な事すんじゃねぇ」と平手打ち

 

その次の瞬間、美香の様子を見た優一が低い声で「余計なことするんじゃねぇ」と吐き捨て、突然美香の頬を平手打ちした。痛みが走るというよりも、むしろその瞬間の衝撃が体全体を凍りつかせた。

 

美香は瞬間的に店員や客の視線を感じた。周りが自分を見ている。みんながこの出来事を目撃している。それなのに、誰一人として声をかけてこない。自分が叩かれたという現実が、まだ理解できないまま、ぼんやりとした意識の中でその場に立ち尽くしていた。

 

「なんで……?」という言葉が心の奥底でささやかれる。美香は動けなかった。頬の痛みとともに、心にひりひりとした孤独感が広がっていく。周囲の目があるのに、誰も助けてくれない。自分はここで一人なんだ、と痛感させられる瞬間だった。

 

  人前で叩かれる屈辱

 

心の奥底から湧き上がってくるのは、怒りと屈辱、そして深い悲しみだった。

 

優一に叩かれた痛みよりも、自分の存在がどれだけ軽んじられているのか、どれだけ無力に感じるのかが、美香の胸を締めつける。

 

こんな些細なことで、自分は彼に叩かれる存在なのか――その事実が、心に重くのしかかる。

 

  沙織とイベントでお面を作る

 

ママ友達と一緒に出かけたイベントは、久しぶりに美香が穏やかに過ごせるひとときだった。心の中に重くのしかかる日々の疲れを、少しの間だけでも忘れられる時間。ワークショップで、みんなと一緒にお面を作る。

 

沙織は色鉛筆を手に取り、笑顔で個性的な色使いでお面に鮮やかな色を塗っていった。美香はそんな沙織の姿を見て、ふと嬉しくなり、少しだけ安堵を感じた。いつもの家の中とは違う、優しい空気がそこにあった。

 

  お面で楽しそうに遊ぶ沙織

 

出来上がったお面を手に、沙織は他の子供たちと楽しそうに遊び回っていた。ママ友達の子供たちの笑い声、走り回る小さな足音、その風景を眺めながら、美香は静かに心を癒していた。

 

  お面がなくなる

 

次の日、沙織が「お面どこ?」と聞いてきた。美香は、「テーブルの上に置いてたよね」と答え、家の中を見回す。沙織がせっかく楽しんで作ったお面、そんなに大事なものを無くすわけがない。

 

美香は焦る気持ちを抑えつつ、家中を探し始めた。クローゼットの中、リビングの隅、ソファの下……でも、どこにもない。

 

  お面はゴミ箱に捨てられていた

 

最後にふとゴミ箱に目をやると、目に飛び込んできたのは、折り重なって無造作に捨てられた2つのお面。瞬間的に、頭の中で優一の顔が浮かんだ。

 

「まさか…」

 

怒りが込み上げてくる。沙織があんなに楽しそうに作ったものを、どうして捨てるんだ?美香の手は震え、胸の奥に抑えきれない感情が渦巻いた。冷たい何かが心の中に広がる。沙織に気づかれないように必死で怒りを抑えながら、優一に向かって低い声で話しかけた。

 

「このお面がゴミ箱に捨てられてたんだけど、優一が捨てたの?」

 

  そんなのゴミみたいなもんだろう

 

優一はテレビを見ながら、無関心そうに顔を向けることもなく答えた。

 

「そんなの、ゴミみたいなもんだろう。」

 

「沙織が一生懸命作ったお面を勝手に捨てるなんて、非常識だよ。」

「人のものを勝手に捨てないで。」

 

美香の声は低く、震えていた。怒りが滲むその声に、優一はつまらなそうに肩をすくめて、いつものように反発してきた。

 

「うっせーな。お前、たいして稼いでないくせに、黙ってろよ。」

 

繰り返されるいつものパターン。美香の胸に重くのしかかる、絶望と虚しさ。何度このやり取りを繰り返してきただろうか。

 

日常の中で少しでも心安らぐ時間があれば、また明日も頑張れるはずなのに、家に戻るたびにその希望は優一によって打ち砕かれる。

 

  もう、うんざりだ。

 

優一の声が遠く感じる。何度言われても、同じことが繰り返される。こんな日々がずっと続いていくのかもしれない――その現実を前にして、美香は心が折れそうだった。

 

途方に暮れながらも、美香は立ち上がった。そして、そっと沙織の部屋を覗き、無邪気に遊んでいる沙織を見つめる。沙織のために、何ができるのかを考えなければならない。