こんにちは。もちもちかにぱんです。お久しぶりです。

昨日、クイズ番組見てたら「卒業ソング特集」みたいな問題で、卒業ソングの中のフレーズを埋める問題が出てたのね。
やっぱり異彩を放っていたのは尾崎豊の「卒業」
知らないっぽいお兄さんが「夜の校舎窓ガラス壊して回った」のフレーズが言えずに案の定撃沈。
他の歌を見たら飛びたつ希望とか、友情は永遠にとか、そんな感じのこと言ってるから知らなきゃ分かるわけないよねと思いつつ……。

でも、ほんとに尾崎の卒業はタダの不良ソングなのか、と考えると、違うとり方もできるような気がしてきた。
現代社会ではこの歌をそのままの意味に取って共感できるような人が居ないからこそ、別の読み方をすることも出来ると思うのね。
なんだかぼくには出ていた歌の中で尾崎だけが青くて尖った学生の、大人になる過程でもがいて悩んで時に周りを傷つけて、その人にとっての激動の時代を生きる様子をちゃんと生々しく歌っていたような気がした。
あ、ここから先はただの飛躍気味な考察だよ……?

勿論ほとんどの学生は窓ガラスは割らないんだけど、何もこの歌で言う窓ガラスは窓ガラスそのものだけにしか読めないわけじゃないと思う。
尾崎の卒業は「学校に、教員に縛られ生きる自分たちがもがく」って描写の中に、感情のやり場をなくした青年が窓ガラスを割る場面を据えている。
この学校もまた学校だけじゃなく、青年たちを縛るものの象徴として読める気がする。

今を生きる青年にとっても、自分を縛る要因は沢山ある。
周りからの評価、人間関係、自分自身の気持ち……と学校と違って見えないものの方が実はメインかもしれないけどね。
そして、こうして縛られることでフラストレーションを抱える。
青年はいつの時代もフラストレーションを抱える存在なんじゃないかな。

じゃあそのフラストレーションはどこへゆくか。
青年期の人間はストレスに対して防衛機制と言っていくつかの防御のパターンを持ってるんだけど、その中の置き換えってやつは所謂八つ当たりなのね。

そうして青年は手の届くものに対してフラストレーションをぶつけてしまう
親だとか、友人、教師とか。
早い話が周りの人、ものだよね。
まぁ、自傷行為を含めると自分も入ってくるかもしれない。
それって学校の抑圧にブチ切れて直接は関係ない窓ガラスを壊して回るのとかぶるような気がするの。

いや、勿論窓ガラスを割る行為にはある種の「かまって」みたいな意味もあるんだろうけど、それはそれでそれこそ教員に反発することで教員をストレスの捌け口にする行為そのものだし、ただ目立ちたくて、あるいは悪な自分のイメージを築きたくてやったとしてもそれはそれで防衛機制に通ずるところはある。

とどのつまりは、
学校=青年を苦しめるフラストレーションの原因
窓ガラス=ストレスの捌け口
と読めるということ。
「夜の校舎窓ガラス壊して回った」は強い自分じゃなくてむしろ弱い自分、フラストレーションを抱えて我慢することの出来ない自分の描写にも見える。

こうして見ると、ただの不良ソングという印象とは逆に、ある種の懺悔、もしくは弱い自分の情けなさの吐露がこの歌の裏側にあるのかもしれない。
そして、この歌の卒業という行為は先程のような意味で読めば様々な呪縛から抜け出す行為にあたる。
だから「あと何度自分自身卒業すれば本当の自分に辿り着けるだろう」って言ってるのかもね。

そして尾崎は最後に言うわけ。
「一つだけ分かってたこと この支配からの卒業」。
この支配ってフレーズは曲のコンセプト通りそのままの意味としても、いずれは自分を縛るものが無くなるのは事実。
だから、こうしてやり場のないフラストレーションを抱えて苦しむ経験は良くも悪くも心のデリケートな青年の特権。
その中でそれをぶちまけてしまって周りに迷惑をかけたりするのも青年の特権。
いいか悪いかは置いておいて。
そして、青年自身もそんな自分の心と行動を今の年齢特有のものとして甘んじて貰っていることを知っているのかも知れないね。

こうやって思い悩み、そしてそれを取り囲む環境を捌け口にしてしまう、青年の弱さ、デリケートさを歌から感じたなぁというお話です。
尾崎はそんなこと1ミリも考えずに歌詞を書いたのかもしれないけれど……。