絶望感満載の中学時代。

 

ベース、親に頼れない。

というのがありました。

 

父親は精神的な病気の後も

神経質でしつけに厳しい人でした。

 

 

いつも怒られないか

びくびくしているのですが、

 

ご飯の食べ方、靴の並べ方、

制服のスカートの長さとか・・・。

イチイチ。

 

 

そのくせ私は、どこか

怒られても懲りない、ノー天気さも
すでに持ち合わせていました。

 

 

 

マイペースというか、

どこ吹く風というか、

ケセラセラみたいな。

 

 

 

 

高校は、これまた

自転車で15分の地元の公立の学校に

進みました。

 

 

私立高校から

推薦の声もかけてもらい

迷いましたが、

 

中学の部活の友達は

ほぼ、近くの高校に進むので

結局、地元の公立高校に進みました。

 

 

 

ここでは、陸上部の熱心な顧問の

先生がいらしゃって、

初めてちゃんとした練習をし

鍛えてもらえることに

どこかで、ワクワクしていました。

 

 

1年生の頃から、

個人種目と、リレーで

インターハイに出場しました。

 

陸上競技 命みたいな

生活になって、

勉強の方は、さっぱり。

 

 

男子生徒が多い中、

「授業中、うたたねをする女子がいる!」

とちょっと別の意味で有名になりました。

 

諦めがはやいわたしは、

勉強と運動の両立ができるほど

器用でもないと、

勉強には、サッサと見切りをつけた

ところがありました。

 

 

1年生で国体に出ると、10日間、

学校を休んで、

翌日から定期テストという

サイクルになることをきっかけに

 

「落第点を取らないこと」に

勉強の目標を定めました。

(※これ、目標っていえるのか?)

 

 

 

2年生になると、熱心な顧問の先生は

突如、転勤になり、

次に顧問になった先生は

新任の先生。

 

部活の技術的な指導は、専門では

ないからできない・・・

 

「君たち、今日はどんな練習をしたいの?」

 

ガーン!

「自分で考えるってか???」

 

ギンギンのスパルタ指導から

優しい自主性をベースにした指導法に

変わるということに。

 

 

 

高校生活って楽しいことは

たくさんあります。

誘惑もありますからね。

 

 

こんな自主性の~の指導で

さぼり始める子が続発・・・。

 

 

 

わたしは、とりえは、走る事ですから

そうなるなら、

自分で考えて練習するようになりました。

 

専門雑誌を読んで、いかに速く走れるようになるか?

とか

そのころから、毎日練習日記を書いて

練習の内容、体調、

試合の時のウオーミングアップと

その時の結果。

次の改善点、気づいたこととか・・・。

 

 

夏休みになると、大学生の先輩が部活の指導に

きてくれて、教えてもらったり。

 

 

隣の強豪校と合同練習の時に

そこの先生から

教えてもらったりして、

練習を続けました。

 

 

朝の補修をさぼって

朝練をしたり、

 

今にして思えば、自由な校風と

環境は、結果的に

自立、自主性というものを

育んでくれました。

 

 

同級生に投てきの全国大会レベルの子が

いて

二人で朝練をしていました。

 

 

インターハイ優勝を目標には

していましたが、

 

 

学校がそんなに熱くなることもなく、

期待されることもさほどなく、

(※みんな受験勉強してるので)

3年のインターハイに出場しました。

 

 

ラグビーをやってる男子から

「グランドグルグル走るのが

  何が面白いの?」とか

 

日頃、感情の上げ下げもなく

タンタンとして学校生活を

送っているように見えたのでしょう。

 

「アンタさ、悩みなんかないでしょ?」

 

とか言われましたけど、

悩みますって顔して

悩むわけではないのだよね。

 

まあ、そう聞かれるくらい、

なんか不思議な生徒だったのでしょうね。

 

走るのは速いけど、

感情表現は豊かでもなく、

ちょっと暗めな高校生。

 

 

みんなに合わせすぎず、
コンコンとマイペース。

 

走ることが

当時、唯一無になれるもの。

その爽快感みたいなものがありました。

 

 

 

目標は、インターハイで優勝することで

あっても

 

目的は自分の可能性にチャレンジしたい

という気持ちだったと思うのですね。

 

 

いよいよ、高校最後のインターハイを迎えます。

 

 

つづく・・・

 

image

(※高2の国体、左側があたくしです)