『71フラグメンツ』はミヒャエル・ハネケ監督の映画で「感情の氷河化」三部作の三作目にあたる。『殺人に関する短いフィルム』はクシシュトフ・キエシロフスキ監督のデカローグ第五話を、劇場公開用に編集したものだ(個人的に『愛に関する短いフィルム』は偏愛映画である。この映画の感想もいつか書きたい)。

 

 上記の作品はいずれも、被害者、加害者をはじめとして、事件が起こるまで、起こった後を関係者の行動に沿いながら、群像劇のように描く。私たちは、スマホやテレビなどからニュースを目にする。そのとき、私たちの前に表示されるものは、○○が○○をした、という状況の記述である。言い換えれば、出来事の「断片」だ。その断片を自分の中に取り入れ、友人、家族との会話でそのことについて語る。しかし、「知る」ことと「理解する」ことは全く別の問題だ。私たちがその事件について語るとき、私たちが語れることは、とても限定的なものだ。私たちはその出来事の断片しか持っていない。

 

 映画の特徴として、時間を表現できる、ということがある。時系列に従って、登場人物の心情の変化、関係性の変化を描くことができる。『71フラグメンツ』はこの特徴を生かして、青年による銀行の射殺事件の断片を描いた。この映画は、事件が起こるまでの加害者、被害者の生活を断片的に提示する。加害者の男はパズルゲームや卓球などをする。周りからの重圧もある。ただ、事件に至った直接的な原因が何であるかはわからない。ハネケ監督はインタビューでこう語る。「20世紀後半の映画作家ですべてを“わかっている”映画作家はもはや存在しない」 映画において、答えはこうである、と指摘することこそ最も傲慢な行為であるのかもしれない。映画作家にできることは、観客の前に出来事の断片を提示することしかないのかもしれない。そして観客はその断片をつなぎ合わせ、自らの答えを見つけ出す。この映画の主人公は、パズルゲームをする。組み立て方によって、全体のかたちはいかようにも変化する。変容するからこそ、映画は魅力的なのである。

 

 主人公が卓球のボールを打ち続けるシーンも印象的だ。来た球を同じ動きで返し続ける。それをカメラは全く動かずに執拗にとらえ続ける。はじめは、その動きを追いかける。次第に飽きてくる。なぜここをこんなに映す?そしてそのあとは、対象そのもの、つまり球を打ち続ける彼自身を見るようになる。なぜ彼はこんなに打ち続けるのだろうか、何か大会でもあるのか、腕がつらないだろうか、などなど。誠に勝手な意見だが、日ごろのニュースを見るときにも、このような姿勢が必要なのかもしれない。つまり、○○が○○をした、というその「動き」だけでなく、なぜ○○はそんなことをしたのか、どういう背景があったのか、など、対象を無機質なものとしてではなく、一人の人間として捉えることができたなら、物事の見え方は180度変わってきそうだ。

 

 ロベール・ブレッソンは遺作『ラルジャン』の中で、行為の断片化を完成させた。『ラルジャン』の中では、主人公が殺人を犯す場面、妻からの手紙を読む場面、自殺をする場面において、直接的な描写がない。殺人のシーンは、洗われる手を伝う水が、徐々に赤に染まっていく、たったこれだけだ。手紙は、いったん主人公の同房の人物に焦点が当てられ、そのあと主人公がベッドに突っ伏しているシーンが見えてくる。自殺の場面も、まず主人公が鍋?を使って大きな音を立てる。それを見かねた看守が、薬を与える。しかし彼をそれを飲まず、大きな薬の山の中にそれを追加する。とっておいたのだ。そしてそのあとはサイレンが鳴り、救急車に担ぎ込まれる。このように、その出来事に関連する音、場面をいったんばらばらにし、徐々に観客に提示する。そうすることで観客はその出来事について、急にではなく、徐々に自分の感覚を開いていく。さらに決定的な行動(人を刺す、手紙を読む、薬を飲む)をあえて描かないことで、観客に想像させる。観客を束縛しないことで、一見不親切なようにも感じるが、映画自体の可能性が広がる。観客は自分をその人物に重ね合わせるかもしれない。バラバラなはずの断片たちが、一つの意味を成し、観客の心に響くのである。

 

 『殺人に関する短いフィルム』についても語ろうと思ったのだが、これはいつかキエシロフスキ監督についての記事で書きたいと思う。的外れな意見だったかもしれないが、少なくとも僕はこう思っている。