続 昭和天皇
トルーマン大統領と、マッコイとロベットとスチムソンを含むワシントンの高官に概要を説明した後に、ランスデイル大尉はロバート・B・アンダーソンを連れて、一九四五年十一月に東京に戻った。それから、マッカーサー将軍はアンダーソンとランスデイルを伴って、マニラへ極秘に飛んだ。マニラで、彼らはサンティが既に開けていた地下室へ出かけた。その地下室で、アンダーソンとマッカーサーは「二メートルの高さにびっしりと積み上げられた金塊の山」のところへぶらぶらと降りていった、とわたしたちは告げられた。彼らが見たものから、アジア中から数十億ドルもの財宝をある期間で日本が略奪したことは明らかであった。アンダーソンとマッカーサーが見たものは、単に日本に「届けられなかった」黄金だった。戦争で破産するどころか、日本は非常に富んだ国になっていたのだった。
レイ・クラインと別の者たちによると、一九四五年から一九四七年の間に、サンティとランスデイルによって発見された金塊は、極秘に船で四十二カ国、百七十六の銀行に移された。秘密にすることがきわめて重要であった。もし、巨大な量の盗まれた金が発見されたことが知られたら、数千人の人々がそれは詐欺で手に入れたものだと、権利を主張するだろう。そして、政府は所有権の問題を解決するために動きが取れなくなるだろう。トルーマン大統領はまた、もし大量の黒い黄金がまさに存在していることが公に知られることになると、一オンス三十五ドルの固定された金の値段が崩壊するだろうと警告されていた。そうなれば、多くの国は自国通貨を米ドルにリンクさせているので、そしてドルは金にリンクしているので、世界中の通貨価値が急落して、経済恐慌の原因となるだろう、と。
レイ・クラインと別の者たちによると、一九四五年から一九四七年の間に、サンティとランスデイルによって発見された金塊は、極秘に船で四十二カ国、百七十六の銀行に移された。秘密にすることがきわめて重要であった。もし、巨大な量の盗まれた金が発見されたことが知られたら、数千人の人々がそれは詐欺で手に入れたものだと、権利を主張するだろう。そして、政府は所有権の問題を解決するために動きが取れなくなるだろう。トルーマン大統領はまた、もし大量の黒い黄金がまさに存在していることが公に知られることになると、一オンス三十五ドルの固定された金の値段が崩壊するだろうと警告されていた。そうなれば、多くの国は自国通貨を米ドルにリンクさせているので、そしてドルは金にリンクしているので、世界中の通貨価値が急落して、経済恐慌の原因となるだろう、と。
この議論は「ブラック・イーグル戦略」から利益を得ようとする立場に立つ者たちによって大きく誇張されたが、誰もどんな合意が得られるかを明確にすることはできなかっただろう。もし、その黄金が秘密にされたら、金価格は一オンス三十五ドルに固定できるだろうし、ドルの強さを維持できて、金にリンクした通貨は安定するだろう。一方、連合国の主要銀行を支持しながら、連合国を強化しながら、黒い黄金は予備資産として使えるだろう。いわば安全装置として、これらの銀行に置かれた金塊は注意深く制御された。その黄金の使用には厳密な制限がつけられた(使途指定と呼ばれる手順)。これによって、ワシントンは時として、政府や中央銀行や主要銀行に圧力をかけることができた。簡潔に言えば、国と指導者が協同し、冷戦の中で合衆国と連合を維持している限り、眠っている金塊から派生する政治的な汚い基金として得意客のために使用することが可能だった、ということだ。
記録文書によると、一九四五年と一九四七年の間に、莫大な金とプラチナが「ユニオン・バンク・スイス」と別のスイスの銀行を含む世界の巨大銀行に預けられたことが示されている。そして、それが「ブラック・イーグル・トラスト」の主要な貯蔵所となった。スイスが戦争中、中立国であったこと、またスイスの銀行が略奪されたり、破壊されたり、破産したりしないので、スイスの銀行が中枢の役割を演じた。主要なスイスの銀行の役員によってサインされた書類は、この資産を基礎にして裏書きされた非常に巨額な借款が戦争から復興するためにもがいている英国政府、エジプト政府、中国国民党政権、その他の国々になされたことを示していた。
長い期間、これらの事態を悪化させた元凶は、国家機密という口実がそれを悪用する環境を創り出したことである。国家機密を防御することは、政府の官僚と、彼らが属している部署の者たちを防御することである。後半の章で、この地下資金が巨大な賄賂として表面化したこと、イタリアやギリシャや日本やその他の国で、選挙を金で買うことに使われたという多数の記録された例を提示する。有益な信託が世界中の影響力のある人物のために設立された。黄金の持参人の証明書が契約締結の誘因として与えられた。賢者たちの手の中にあれば、可能性は無限であった。
数十年間、世界の巨大銀行の幾つかは金庫室の中にある黒い黄金を弄ぶことに耽溺するようになった。今や、彼らは黄金を維持するために必要なことなら、どんなことでもするだろう。これは、スイス銀行でホロコーストの被害者の黄金で起こったように、そのためなら証明書を持っている者、あるいは相続人からだまし取ることさえするということを意味する。
振り返ってみると、「黄金の百合」の財宝がある地下室を発見することと、「ブラック・イーグル・トラスト」の設立は、愛国的な理由と高貴な根拠のためになされるとしたら、容易なことだった。冷戦の間、国家機密にされることによって、仲間の報告を見ることが不可能だったので、多額の地下資金として諜報活動に使用することは、それほど容易なことではなかった。それを使うことによって利益を得る者たちを除外したら、いったい誰が秘密の資金を監督できるだろうか。
また別の悪用がなされた。この財宝を隠匿するために、また一九四〇年代後半のアジアに押し寄せた共産主義の潮に対抗するために、ワシントンは多くの大きな外交的な嘘をついた。特に、日本について嘘をついた。日本が黄金のほとんどを盗んでいたのに。
日本を支配しているエリートは、共産主義の脅威を警告している伝統的にガチガチの保守主義者である。アメリカは日本がアジアの反共産主義の砦になることを望んでいた。そこで、東京の隠された富のことは決して知られてはならなかった。東京の最も熱烈な反共産主義者はたまたまだろうが、戦犯として起訴されていた。そこで、アメリカは民主主義への改革と新しい憲法を導入する一方で、日本をまったく非民主的な男たちの支配に後退させ、巨額な黒い資金を注入することで、彼らを権力者の地位に保った。
一九四五年のことの始めから、ワシントンは日本は何も盗んでいないし、不景気になり戦争が終わったときに破産したと主張していた。ここに、多くの大きな歪曲がある。そして、それが怖ろしい秘密となった。
「黄金の百合」で集積され、ワシントンによって取り戻された財宝は秘密にされねばならなかったので、日本とアメリカの市民は完全に欺かれたことになる。一九五一年の日本との平和条約の締結はこれらの歪曲によって歪められた。それで、(日本の会社のために奴隷労働を強いられた)数千人の戦争捕虜と市民はその苦難に対してまったく賠償を受けなかった。日本が戦時賠償を逃れるために、ジョン・フォスター・ダレスはこの条約の用語をうまく秘密にするために、三人の日本人と私的に会った。三人の内の一人は宮沢喜一だった。宮沢は後に日本の首相になったし、何度も財務省の大臣になった男である。
平和条約の第十四条によると、「日本はこの戦争中に、日本に起因する連合国軍への損害と苦難に対して賠償金を支払うべきであると認められる。しかしながら、日本の資産は現在十分でないこともまた認められる」。
- 日本は破産しているという主張を補強するために、第十四条は次のように述べる。「連合国軍は、日本によるすべて行動に起因したことに関して、連合国軍とその国民のすべての賠償要求を放棄する」。(強調は著者)。この条約に調印することによって、連合国は日本の略奪品がウサギの穴に落ちて消滅したこと、更にすべての日本軍による犠牲者は運が悪かったということで、意見が一致したということだ。
この条約に賛成した返礼として、連合国の疲弊した中央銀行を強化するために、ワシントンはサンタ・ロウマーナーによって取り戻された黒い黄金を船便で秘密に送った、ということをわたしたちは証明する。
「ブラック・イーグル・トラスト」とそれが生んだ政治活動資金は、本に書かれて暴露されることなく維持されたので、これらの汚い資金のあるものは悪い奴らの手に落ちた。そこで、彼らはその資金を今日まで維持している。そして、それは以前より大きくなっている。ワシントンと東京の信頼できる筋からの情報によると、一九六〇年に副大統領ニクソンはアメリカ大統領選挙の時に、ニクソンの選挙資金としてキックバックするという約束の見返りとして、これらの資金の内で最大の資金、M資金を日本の自民党指導者たちに与えた、という。しかし、M資金はその当時で三百五十億ドル、今の価値で五千億ドル以上と言われるが、自民党のキングメーカーによってそれ以来ずっと支配されてきた。彼らは選挙を金で買うために、日本の一党独裁体制を維持するために、いかなる意味ある改革も阻止するために、その資金を使ってきた。別の資金による同じような悪用は世界中で見られる。
秘密は力である。力は堕落する。秘密の力は秘密に堕落する。
- 日本に関する専門家チャルマーズ・ジョンソンはこれをうまく表現している。「冷戦は終わった。合衆国が信じてきたどんなことでも、冷戦を起訴するために必要だった。冷戦そのものは、もはや費用の点と意図しない結果について、無知を正当化することはできない。今日の論点は、日本が社会主義に変わるか、中道主義に変わるかではなく、なぜ長期間合衆国に依存してきた日本政府がこれほど堕落し、馬鹿げたものであり、弱いのかということである」。
どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。
戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。一八六〇年、中国北部へ懲罰的な遠征をした英仏の軍隊が酔っぱらって暴れだし、北京郊外のすばらしい夏宮殿で略奪した。打ち壊し、破壊し、あるいは運べないものは焼き、一つの宮殿とあずまや以外のすべてが焼けて、やっと終わった。信じられないことだが、兵士たちが見つけた黄金は本物だったのだが、教育を受けていない彼らは、そのほとんどを捨ててしまうか、アルコールと交換した。(この連合軍の司令官はエルギン侯爵で、彼の父はアテネのパルテノン神殿からほとんどの彫刻を持ち出した)。一九〇〇年、西洋の軍隊が再び北京に入城した。今回はいわゆる義和団の公使館包囲を解くための入城だった。それから、紫禁城の内部で略奪しながら、打ち壊しながら、酔っ払って暴れ回った。
日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。
日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。
日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?
公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。
日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。その中には、一九三〇年代と一九四〇年代に東アジアを縦断して世界で最も大がかりな麻薬取引を指揮していたギャングたちと親分たちが含まれていた。ワシントンは、日本の政府が戦争を始めたその同じ男たちの手に戻ることを見ていた。これはベルリンでナチ党の者たちを元に復帰させることと同等のことであった。日本ではほとんど抵抗はなかった。というのは、すべての反対はアメリカのマッカーシーの赤狩りよりずっと厳しい魔女狩りのキャンペーンのために沈黙させられていたからだ。わたしたちが示すように、日本の極右の再誕生は戦争の略奪品によって資金調達されていたし、日本の財閥によって戦争の間アジアから搾り取られた利益とも協同していた。
合衆国の占領の始まりから、マッカーサー将軍、トルーマン大統領、ジョン・フォスター・ダレス、そして一握りの別の者たちは略奪品についてすべてを知っていたし、日本のエリートたちが途轍もない富を維持していることを知っていたことは、紛れもない事実である。マッカーサー司令部によって準備され、一九五〇年に発行された占領に関する公式報告の中に、はっと驚く告白がある。
「占領の劇的な仕事の一つは、黄金、銀、宝石、外国の切手、彫刻の原板、そして日本では通用しない通貨などの大量の宝物を集積し管理することを扱ったことである。この富の大部分は集積され、日本の役人によって合衆国軍の管理下に置かれたにもかかわらず、これらの財宝の申告されていない隠し場所が存在することが知られていた」。たとえば、マッカーサーの職員は東京湾に沈められた二十億ドル相当の金塊のことを知っていた。この金塊は後に回収された。
一九四六年に合衆国諜報部によって発見された別の大きな財宝は、暗黒世界の親分児玉誉士夫によって集められた百三十億ドルの戦時略奪品であった。児玉は帝国海軍の「本当の海軍大将」として、中国と東南アジアで「黄金の百合」作戦に従事していたのだが、アジアの暗黒世界とヤクザからの略奪を担当していた。戦後、巣鴨刑務所から出所するために、また戦犯として起訴されるのを免れるために、児玉はCIAに一億ドルを渡した。そして、これはM資金に加えられた。児玉はそれから、個人的に二つの政党を創立する資金を出した。その二つの政党は合併して、日本を支配する自由民主党となった。また、自由民主党は今日まで、ワシントンから強力に援助されている。
日本が戦争で略奪した黄金をサンティが極秘に取り戻したことに関する動かしがたい証拠は、アメリカで法的に正当な活動から得ることができる。サンティの遺言検認を申請すること、ニューヨーク、アルバニーで彼の納税記録の立証証明をとること、そして合衆国とスイスと香港その他に預金されていた彼の財産の法的な証拠を押さえるなどの簡単なことで、世界は「黄金の百合」に発した秘密の銀行の財産にあふれているという動かしがたい証拠が提供される。
この本で、注釈で、九百メガバイト以上の文書、写真、地図、別の画像を含む二つのCDの中で、わたしたちは巨大な量の戦争で奪われた黄金がシティ・バンク、チェース、香港上海銀行、「ユニオン・バンク・スイス」、その他の世界的な銀行の金庫の中に、今日も維持されているという確実な証拠を提供する。わたしたちは手紙の写真コピー、契約書、貨物運送状、州政府の納税記録、保険の担保、そして「ブラック・イーグル・トラスト」を運用したブローカーたちとのインタビューを提供する。
わたしたちは極秘の信託がマッカーサー将軍と彼の旧敵天皇裕仁によって協同して支持され、日本の三和銀行で設立された方法に関して証拠書類を提供する。この取引は裕仁の年号にちなんで昭和信託として知られているが、非常に大きかったので、一九八二年までに一年間にほぼ十億ドルの利子を払っていた。わたしたちはまた三つの昭和信託の一つを確認した。そして、わたしたちはどのようにしてマルコス大統領がこの取引を知ったか、そしてこれを使って日本政府にブラック・メールを送ったかを示す。
ホロコーストの犠牲者がスイスの銀行によって隠された資産を取り戻すために、フォルクスワーゲンのようなドイツの会社での奴隷労働の補償を勝ち取るために、そして家庭や職場から盗まれた美術品の所有権を取り戻すために、ほぼ六十年を要した。日本の占領五十周年を契機に、彼らの成功は、別の犠牲者たちが補償を求める根拠の確かな要求をすることを勇気づけた。これは前例のない犠牲者たちの共闘を導いた。
この最後の太平洋戦争の闘争は、カリフォルニア州の裁判所で行われていた。そこに、生き残った戦争捕虜、奴隷労働をさせられた人たち、慰安婦、そして市民の犠牲者が戦後非常に奇妙なことに否定された補償を勝ち取るために、数十億ドルの訴訟をおこした。一九九五年、太平洋戦争の七十万人の犠牲者が依然としてまったく補償されていないと見積もられていた。加齢と病気のために、その数は急速に減少した。彼らの背後には、活動家と法律事務所の途轍もない連合がある。英国は沈黙させるために、犠牲者に一時金を支払うことによって、法律的な発見のこの潮流を回避しようと試みた。
ワシントンはカリフォルニア州の訴訟を連邦裁判所に移すことによって、異なる対処をした。そこで、彼らは政治的な圧力と政府の使者の介入によって阻止された。国務省と司法省は一九五一年の平和条約第十四条を使って、戦争捕虜と犠牲者が三菱、三井、住友のような莫大な富を持っている日本の会社を訴えることを阻止した。二〇〇〇年六月の合衆国上院公聴会で、ユタ州選出のオーリン・ハッチは国務省と司法省の弁護士に対して、一九五一年の平和条約が犠牲者のすべての権利を放棄しているという彼らの主張の合法性に挑んだ。「あなた方は我々の連邦政府は『おまえなどくたばれ。バターンの死の行進、誤った扱い方をされた人たちへ、我々はすべてのあなた方の権利を進んで放棄しようとしているところです・・・』という意味のことを言っているのですよ。憲法上、わが政府が条約ではこうなっていると言うだけで、個々の市民の権利を取り上げることが果たしてできるのか・・・? 我々は日本政府に支払えと言っているのではない。我々はその行為をした企業に支払えと言っているのだ。これらの企業の幾つかは現在、数十億ドルの会社なのだ」。
1945年6月、アメリカ軍戦車が30キロ以内に近づく中、フィリピン占領日本軍の長である山下将軍は敗戦を知っていた。彼はルソン州で技術者達が建設した175の地下トンネルの一つの中で175人の日本人技術者の別れの宴を催した。真夜中、酒に浸り愛国歌を唱いながら、山下は(二人の親王とともに)こっそり抜けだし、トンネルの入り口でダイナマイトを爆破させた。地下70mに生き埋めにされた技術者には、日本軍がアジアで征服した領土から略奪されてずらりい並ぶ金の延べ棒という物言わぬ仲間があるだけだった。
何千人もの連合軍捕虜とアジア諸国からの民間人奴隷労働者も秘密の金庫建設を終えた後、地下洞窟、トンネル、坑道に生き埋めにされた。この秘密の隠し場所の秘密を知っていて、生き残ったのは、スターリングとペギー・シーグレーブ夫妻が本書Gold Warriors中で明らかにしたように、戦後に戦利品を回収するはずの日本人軍人トップと皇族のエリートだけだった。
秘密の金庫を守るべくとられた極めて残虐な対策にもかかわらず、アメリカの軍事諜報将校達はその存在をつきとめ、何十億ドルもの価値の金、プラチナ、宝石、伝統的財宝を隠された場所から取り出した。ナチによるヨーロッパから戦時略奪品とともに、日本の略奪品は、ナチによって盗まれた金塊に捺印されたナチのしるしにちなんで名付けられた秘密の「ブラック・イーグル・トラスト」へとアメリカによって注ぎ込まれた。
アメリカ大統領ハリー・トルーマンは、盗まれた資産を42ヶ国の176の銀行口座に分散して、マネーロンダリングするため、高官による秘密政府チームを作った。責任者はアメリカ陸軍長官ヘンリー・スチムソンだった。
日本の軍国主義政権によるアジアの略奪は計画的で、おびただしいものだった。政府国庫、銀行、工場,家庭や画廊が容赦ない効率の奇襲にあったが、金の詰め物を取り出すため死体の歯までたたき壊すほど細心の注意が払われたのはその好例だ。
日本の暗黒街犯罪者の親玉である児玉誉志夫が大将に擬せられ、占領したアジアを略奪する無法者の責任者となった。(天皇の和歌の一つにちなんで)黄金の百合と呼ばれたこの作戦は、天皇の弟秩父宮を頂点に、日本金融業界トップの何人かによって運営された。
盗まれた富の多くは、一部は戦費をまかなうべく日本へと持ち去られたが、大半は日本のエリートの強欲に向けられるはずだった。アメリカ潜水艦が日本を封鎖すると略奪品の流れは止まり、それはフィリピンに積み上げられた。
アメリカによって発見されるや、アジアにおける反共の砦とすべく、戦後日本への資金援助へと注ぎ込まれた。黄金の百合略奪品は、アメリカ陸軍大佐が率いる児玉の犯罪者仲間からなる秘密暗殺団を支援する四谷資金に注がれたが、日本における資本主義再生の邪魔になる学生運動指導者、自由主義者、左翼、組合運動家、ジャーナリスト等が団の標的だった。
東京戦犯裁判の主席検事ジョセフ・キーナンにちなんで名付けられたキーナン資金も、黄金の百合資金を使って、証人達に賄賂で証言を偽らせ、天皇の評判や、右翼政治家や、児玉のような犯罪者の親玉連中を仕立て直し、親米派を激励し、戦後日本における保守派の政治影響力を固めようとしたのだ。
この資金はまた日本の化学生物兵器計画の証人達に偽証をさせるための賄賂に使われ、彼らが持っていた破壊的な知識を秘密にしておき、それをアメリカ軍に引き渡すようにさせた。黄金の百合プロジェクトの目撃者達そのものへの賄賂にも使われた。四谷資金にまつわるよくある死因として、賄賂に抵抗した人々の変死や不審な「幇助自殺」があった。
- この二つの資金は最終的にM資金へと流れ込み、まずは控えめな20億ドルで始まったが、急速に拡大し、1950年までには日本の国民総生産のほぼ10%にまで至った。これから得られた利益で、日本の自衛隊と、日本の主導権を握る右派たる自由民主党形成を支援した。
M資金は、戦時の閣僚として奴隷労働の活用に積極的に関与し(また1930年代から副業として麻薬にも手を染めていた)それほど親米派でないライバルに対する自民党指導者としての岸信介を援護するために、全ての自民党派閥に対して大きな報酬を支払った。1957-1960の三年の首相在任期間に、自民党はCIAから毎年1000万ドル受け取っていたが、これは主としてM資金から引き出されていた。
CIAは、戦後の数十年間、未発見の黄金の百合略奪品狩りにも加わった。日本やアメリカからの財宝ハンターが蜜に群がる蜂、あるいはずっとまずいものにたかる蠅のように、生き埋めの現場や、財宝を載せた船が日本降伏のわずか数日前に急ぎ足で退散した海域に集まった。
ワシントンお気に入りの独裁者の一人、フィリピン大統領フェルディナンド・マルコスは1965以後、これに割り込み、CIAの飛行機、アメリカ空軍機、さらにアメリカ海軍の船を使って金塊を移動した。彼は「黒い資金」のための避難先オフショアであるCIAの銀行世界ネットワーク(例えば、オーストラリアのヌガン・ハンド銀行(Nugan-Hand Bank)では、理事会に退役アメリカ情報将校がずらり並んでいる)を利用した。
マルコス(そしてマルコス後時代のフィリピン大統領コリー・アキノ)もまた、CIA、ペンタゴンとつながって、ゴールド・ラッシュに加わったアメリカ軍需企業や民間諜報組織の助けを得ていた。泥棒連中のやり方のご多分に漏れず、略奪者と政治家によるジョイント・ベンチャーは、お互いに殺し合う裏切りや惨事にいたる仲違いで中断することが多かった。
続 昭和天皇
天皇の秘密財産
第二次世界大戦が終結する数ヶ月前、フィリピンにおいて、山下奉文将軍はルソンの山々で遅延活動を闘っていた。一方、日本の皇室の皇子たちは未来にそなえて準備していた。彼らは略奪した金の延べ棒と、また別の盗んだ財宝を近くの洞穴やトンネルの中に隠すことに忙しかった。それらは後に発見される運命ではあったのだが。これらは数千年にわたり集積されたアジアの十二の国々の財産であった。日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であったが、一九四三年初期に合衆国の潜水艦による海上封鎖が完全になってからは、海上輸送ができなくなった。そこで、財宝を隠すことが決定的に重要になった。財宝を隠すことができたら、日本が戦争で負けても、金融的には負けることにはならないのだ。この戦争がどのように解決されようとも、日本はフィリピンを維持することをずっと期待していた。皇子たちによって監督されて、百七十五の「皇室」の財宝を隠す地下室がこの島々の中に建設された。一九四五年六月初旬に、バンバングから二十マイル以内に合衆国の戦車隊が接近したとき、百七十五の地下室の主任技師たちが集められ、八番トンネルとして知られていた地下二百二十フィートの地下室で送別会が催された。
第二次世界大戦が終結する数ヶ月前、フィリピンにおいて、山下奉文将軍はルソンの山々で遅延活動を闘っていた。一方、日本の皇室の皇子たちは未来にそなえて準備していた。彼らは略奪した金の延べ棒と、また別の盗んだ財宝を近くの洞穴やトンネルの中に隠すことに忙しかった。それらは後に発見される運命ではあったのだが。これらは数千年にわたり集積されたアジアの十二の国々の財産であった。日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であったが、一九四三年初期に合衆国の潜水艦による海上封鎖が完全になってからは、海上輸送ができなくなった。そこで、財宝を隠すことが決定的に重要になった。財宝を隠すことができたら、日本が戦争で負けても、金融的には負けることにはならないのだ。この戦争がどのように解決されようとも、日本はフィリピンを維持することをずっと期待していた。皇子たちによって監督されて、百七十五の「皇室」の財宝を隠す地下室がこの島々の中に建設された。一九四五年六月初旬に、バンバングから二十マイル以内に合衆国の戦車隊が接近したとき、百七十五の地下室の主任技師たちが集められ、八番トンネルとして知られていた地下二百二十フィートの地下室で送別会が催された。
そこには、壁という壁に金塊が山と積まれていた。夜が更けると、彼らはしこたま酒を飲んで、愛国歌を歌い、万歳(「長生き」)を何度も何度も大声で叫んだ。真夜中に、山下将軍と皇子たちはその地下室を抜け出た。そして、地上への連絡トンネルをダイナマイトで爆破した。技師たちは墓に入れられた。彼らは生き埋めにされたのだ。儀式的な自殺ができなかった者たちは、黄金に囲まれて徐々に窒息していっただろう。そして、その地下室群は秘密にされるだろう。数日後、皇子たちは潜水艦で日本へ逃げ帰った。そして三ヶ月後、山下将軍はアメリカ軍に包囲された。
半世紀の間、このぞっとする生き埋めの物語は知られることがなかった。隠された財宝は山下の黄金伝説として無視された。しかし、墓に入れられたのを見た一人の目撃者が、八番トンネルにわたしたちを連れて行き、個人的な話をしてくれた。戦時中、ベン・ヴァルモレスは特別な日本の皇子付きの若いフィリピン人の従者であった。この皇子はフィリピンにおけるすべての皇室の財宝を隠す場所の建設と、目録作りと、封印を担当していた。高等教育を受け、時として感傷的だったからか、この皇子は最後の場面で、ベンの命を惜しみ、ダイナマイトが爆発する直前に、ベンを八番トンネルから出した。私たちがインタビューしたとき、ベンは七十歳代半ばで健康がすぐれなかったが、一九四三年から一九四五年にかけて彼が見たことと、皇子の仲間たちの中で経験したことを何ヶ月かにわたって、私たちに話してくれた。ベンは遂に、わたしたちに彼がその皇子と関係した他の皇子たちを確認することができる決定的な手がかりを与えてくれた。
日本のアジアからの略奪は、天皇裕仁の魅力的で教養のある弟、秩父宮によって監督されていた。彼の組織は天皇のある歌に因んで「黄金の百合」(ゴールデン・リリー)と暗号で呼ばれた。より下位の皇子たちは占領地域を横切る「黄金の百合」の各地の支部の長であった。日本からの情報によって、現在の時点で、ベンの戦時中の主人は竹田宮恒徳(つねよし)皇子であったことが確認された。
竹田宮恒徳は天皇裕仁の従兄弟で、明治天皇の孫であった。これを確証するために、一九八八年にわたしたちは一九三〇年代に撮られた多くの皇子たちの不明瞭な写真を用いて、ベンに「ブラインド・テスト」を行った。この写真は英国図書館東洋コレクションから得た軍服を着た皇子たちの写真だった。彼らは真珠湾の前夜に写っているように見えた。わたしたちは各々の写真に書かれた名前を除き、普通の兵隊と一緒に混ぜたのだが、ベンは即座に武田宮、裕仁の兄弟である秩父宮と三笠宮、そして年長の皇子朝香宮を間違いなく確認した。ちなみに、朝香宮は南京虐殺事件の時の日本軍の司令官だった。ベンは、彼らが目録を作り財宝の場所を封鎖する間、この皇子たちと一緒にいて、食事やお茶や煙草の世話をしたと話してくれた。ベン・ヴァルモレスは田舎の米を作る農民で、フィリピンから一度も出たことがなく、小学校以上は行ったことがない。それ故、彼が即座に皇子たちを確認したことは説得力がある。わたしたちが用意した武田宮の写真を見たとき、ベンは凍り付いた。それから、日本の民謡「さくら さくら」を低い声で口ずさみ始めた。この歌は武田宮が一人で歌っていたと、ベンは言った。
武田宮の身元の発見によって、わたしたちはより大きなパズルから、見失っていた一つの小片を得ることができた。わたしたちが日本の皇室の伝記「The Yamato Dynasty 大和朝廷」を書いていた一九四五年十月に、アメリカの諜報部員がフィリピンに日本の財宝が埋まった地下室の場所を知り、極秘に数十億ドルの価値がある黄金、プラチナ、文化的な美術品、紛失した宝石等を発見したということを知らされた。この情報がもし本当なら、合衆国政府が半世紀もの間隠してきた途轍もない国家機密の存在を暴露することになる。その掛かり合いが非常に深刻なので、わたしたちは別に調査する価値があると決定した。ここに、わたしたちが調べたことがいくつかある。
一九四五年九月二日、日本が降伏したという公文書を受け取った後に、山下将軍と部下はキアンガン・ポケットの山の要塞から現れて、A・S・ 'ジャック'・ケンワーシー憲兵少佐指揮下の合衆国陸軍将校の部隊に投降した。彼らはマニラ郊外ニュー・ビルバッドの監獄に連行された。(山下がマニラ市を攻撃しないようにと命令した後に)岩淵完二将軍の部下の水兵や海軍兵らが起こしたマニラ市でのぞっとする残虐行為のために、山下将軍は戦犯の容疑がかけられていた。彼の取り調べでは、戦時中の略奪品についてはまったく言及がなかった。しかし、隠された計画があったのだ。弁護士に知られることなしに、山下将軍を肉体的に拷問することは不可能なので、代わりに彼らは山下の部下を拷問した。山下の運転手小島カシイ少佐が特に目をつけられた。山下が満州から一九四四年十月にフィリピンの防御のためにフィリピンに着いてから、小島は山下を何処にでも運転して連れて行った。小島の拷問を担当したのはセルビノ・ガルシア・ディアズ・サンタ・ロウマーナーという名のフィリピン人のアメリカ諜報局将校だった。彼はいくつもの名前と身分を持っており、彼の友達は「サンティ」と呼んでいた。サンティは小島少佐に山下を車で連れて行った場所を明かすことを要求した。そこに、金塊と他の財宝が隠されていたのだ。
サンティを監督していたのは、調査して判明したのだが、エドワード・G・ランスデイル大尉だった。彼は後に、アメリカの最も有名な冷戦の戦士の一人になった男だ。一九四五年九月、ランスデイルは三十七歳だった。それまでは、彼はサンフランシスコに居て、戦争中はOSSのために宣伝文を書いていた、取るに足らない宣伝専門の諜報員だった。
一九四五年九月、トルーマン大統領がOSSを閉鎖する命令をだした時に、ランスデイルの人生に大きなチャンスがやってきた。アメリカの諜報員と自分の個人的なネットワークを維持するために、OSS長官ウィリアム・ドノヴァン将軍は自分の部下の諜報員を他の政府部門と軍事部門の部署に異動させた。ランスデイル大尉はフィリピンの合衆国陸軍G-2に配置転換された五十五人の職員の一人だった。フィリピンで、ランスデイル大尉はサンティが山下長官の運転手を拷問していることを聞きつけ、オブザーバー兼実行者として加わった。
十月の始め、小島小佐は白状し、ランスデイルとサンティをマニラ北部の山々にある一ダース以上の「黄金の百合」の財宝の場所へと連れて行った。そのうちの二つは簡単に開いた。
中にあったものは、みんなを驚ろかせた。
サンティと配下の者たちが他の地下室を開く準備をしている間に、ランスデイル大尉はマッカーサー長官に概要を説明するために、東京へ飛んだ。それから、トルーマン大統領に概要を説明するために、ワシントンへ飛んだ。内閣で協議した後、トルーマンは発掘を続けること、しかしこれを国家機密にすることを決定した。
財宝――金、プラチナ、失われたたくさんの宝石――は共産主義と闘うために、世界的に秘密の政治的な活動資金を創り出すために、ヨーロッパで発見された枢軸国の略奪品と結合された。この「黒い黄金」はトルーマン政府が秘密の作戦のために使うことができる、全く無制限で証明書が不必要な資金の運用を可能にした。「黒い黄金」はまた、同盟国の基金を補強するために、政治指導者たちの賄賂にするために、そして外国の選挙を操作するために、ワシントンによって使われる諜報員の基地を提供した。一九四〇年代後半、この計画は全く正当だと見られていた。というのは、ソ連が世界中で積極的に共産主義者と共産主義運動を援助していたし、資本主義世界の生存を危機的状況に追い込んでいたからだ。
それはトルーマンだけの決定ではなかった。戦時略奪品をグローバルな政治活動の資金にするという考えは、ヘンリー・L・スチムソン陸軍長官とともに、ルーズベルト政府の間で実際に始まっていた。戦時中、スチムソンは枢軸国の略奪品について、またそれを平和になった時にどう扱うべきかについて、綿密に検討する専門委員会を主催していた。戦争の流れが枢軸国に不利に変わってからは、財宝が取り戻されるのは時間の問題だった。この戦争の賞品のほとんどは、ナチスによって占領された国と市民の犠牲者から略奪された黄金の形になっていた。元の所有者の痕跡を消滅させるために、ナチスは黄金を溶解し、ライヒスバンクの鈎十字と黒鷲の刻印を押したインゴットとして再鋳造した。黄金の痕跡を辿ることが困難なのは、また別の理由があった。元の所有者の多くが死亡していたことと、戦前の政府が存在していなかったからだ。東ヨーロッパはソ連の支配に陥っていた。それで、略奪された黄金を元の持ち主に返却することは、問題外であった。
この問題に関するスチムソンの特別な助手は、彼の副官であるジョン・J・マッコイと、ロバート・ロベットと、コンサルタントのロバート・B・アンダーソンだった。三人とも公共事業と銀行業に精通した賢い男たちだった。マッコイは後に世界銀行の頭取に、ロベットは国防長官に、アンダーソンは財務長官になった。彼らが出した結論は非公式に「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれるものを設立することだった。戦後の世界経済の計画のためにニューハンプシャーのブレトン・ウッズに四十四カ国が会した一九四四年六月に、この考えは極秘にアメリカの同盟国と最初に議論された。(これはマニラのCIAの職員で前CIA副局長レイ・クライン――彼は一九四五年のサンティの発見を知っていた――を含む多くの高いレベルの情報源から得た資料によって確認できた。クラインは一九九〇年代、つい最近まで、シティ・バンクの金庫室の中にある日本が戦争で得た黄金を制御する仕事に関与していた)。
続 昭和天皇
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。 そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。 そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
- なぜ負けるとわかっていた戦争をやったのか
真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.
天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった
そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。
太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。
日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。
天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。
日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。
天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。
「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)
原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。
ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
