My student life in Philippines

My student life in Philippines

神戸大学4年、もっちゃんのブログです。
4月から半年間、フィリピン、NGOでのインターンシップの模様をお伝えしていきます。
I write blogs in English,but sometimes in Japanese.
I share my feelings and opinions in Philippines in this blog.

Amebaでブログを始めよう!
ご無沙汰してます。


もはや風化してしまったであろうこのブログ。
一旦やめてしまうと続けるのは難しいですな。

さて、日本への帰国が迫ってきました。
10月25日に帰国予定です。 帰ったらみなさん、会いましょう。
いくらどんなに顔がデカくても、そろそろ7か月もたてば、あのデカい顔
見たいなーと思うでしょう!


みなさんが見ていてくれてるかどうかは別として、今僕が将来に向けて
考えていることを書きます。自分の思考を整理するために。


僕は、ここフィリピンに来て、考え方ががらりと変わりました。
180度とまではいかないものの、ここフィリピンでの体験から自分がどうなりたいかとか
幸せとはなにかとか。色々と考えてきました。


僕は、NGOの活動で、計おそらく8個ぐらいの都市スラムのコミュニティー、3つの農村を訪れました。 その中で、感じたことがあります。

おそらく以前にも書いていたとは思うんですが、
フィリピンの貧困層を見て、感じたことは、「かわいそう、助けてあげたい」ではなく、
「なんだか楽しそう、活き活きしてるなあ」でした。

おそらく、僕が見てきたのは、もしかしたら本当の闇の部分ではなく、
浅い部分しか見れていないのかもしれません。本当に貧困で、学校に行けないとか、
将来お先真っ暗な人だって大勢いると思います。

もちろん、僕も全くつらい現実を見ていないわけではありません。
スラムに住むストリートチルドレンの物乞い、ホームレスは日常的に見ますし、
スラムへ行った時も、何度も劣悪な環境を目の当たりにしました。

でも、気づいたんです。
僕が国際協力に興味があるとか、世界の貧困問題に取り組みたいだとか、
そんな今までの気持ちのほとんどは、「かっこいい」とか「すごいことをやっている」くらいの、あまっちょろい、浅はかな考えだったんだなと。そんな簡単なことじゃない。
現実を直に見て、将来に仕事を本気で考える中で、恥ずかしくも、そう認識しました。


そして、それ以上にフィリピンの貧困層の+の面を見て、僕が将来何をしたいかを考えるきっかけを得られることが出来ました。
それは、彼らから感じることのできる、「楽しそう、活き活きしているなあ」の原因を探ること
から始まりました。話すと長くなるので、結論を先に言うと、
彼らには「お互いがお互いを必要とする関係のあるコミュニティーがあるから。」だと
僕は思いました。 

つまり、簡単に言うと、物質的な豊かさにおいては、貧しいものの、貧しいがゆえに、お互いがお互いを助け合うことのできる「精神的な豊かさ」が満たされているのではないかと思いました。
フィリピンのスラムは、基本的にコミュニティーをなして、生活をしています。
その住んでいる場所が川辺や、駅の近く、線路沿いなどの公共の土地に無断で家を建てていて、
それが様々な問題を生んでいるんですが。。

環境的にも僕が住んでいる日本よりも、相当劣悪です。もう異臭がえぐいし、ネズミの死体とかも転がってます。
でも、なんやろ、こっちの人は、宗教的な背景もあってか、一日一日を楽しんでるし、
お互いが困ったときに助け合える環境にいる。
ところが日本はどうでしょうか? 
毎日毎日しんどそうな顔をして通勤、通学をしている日本人と比べて、どっちが幸せそうに見えるかと言われたら、それは間違いなくフィリピンの人たちだと思いました。


Anyway,話を戻すと、僕はフィリピンのその強いつながりを持っているコミュニティーに惹かれました。 そして古くからフィリピンにある「Bayanihan」というコミュニティー文化に興味を持ちました。 「Bayanihan」とは、コミュニティーメンバーが困ったときに、コミュニティー全員の人が、地位や性別など関係なく、互いに助け合う文化のことを言います。

そこから僕は日本に対する問題意識を持つようになりました。
正直日本については、インターン期間中はまだ十分に勉強できていないので、ここからはあまり深まっていないかつ憶測にはなるんですが、フィリピンの貧困層で見たような「互いが互いを必要とし、助け合う関係」が今の日本では無くなってきているのではないかということです。 もっといえば、コミュニティー自体がなくなってきている。
そして、コミュニティーの最小単位である、「家族」のつながりでさえ、弱くなってきているのが今の日本の現状じゃないかなと思っています。

僕は日本で今深刻になってきている、この「コミュニティーがなくなってきている」ことが、
自殺やうつ病の問題ともつながっているんじゃないかと思っています。

日本では、年間約30000人の人が自ら命を絶っています。
それは一日計算すると、約82人の人が自殺しています。
これは交通事故で死ぬ人の人数より、はるかに多いらしいです。
つまり、言い換えると、不慮の事故で死ぬ人より、自ら死ぬ人の方が多い社会なんですよね。

フィリピンの人にこの話をするとびっくりされます。
「なんで、日本は先進国でリッチな国なのに、自殺する人が多いの?フィリピン人はどんなに貧しくとも、自殺をしようという発想はあまりないよ。」
必ずこっちの人はこう聞いてきます。


今の僕の回答はこうです。
「日本人は、便利で豊かな生活を送ることができるようになったがゆえに、人に頼って、支え合って生きていくことを忘れてしまったんだよ。なぜならお金さえあれば、人に頼らずとも生きていくことができてしまう環境だから。だけど、そのおかげで人間関係が希薄化してきて、お互いがお互いを必要としている関係をつくりづらい。かつ競争社会で、そこから取りこぼされてしまったら、他に手立てがない。つまり、誰でも孤独を感じるリスクのある社会になってしまったのが原因だと思う。」


まぁ他にも原因はもちろんあるでしょうし、色んな見方があるでしょうが、
僕は都市中心の生活、便利で豊かな生活。

それが、フィリピンの農村やスラムで見られる、人々が本来持つべきである、「互いが互いを頼る関係」、コミュニティーを奪い、
生活は豊かになったけど、どこか幸せを実感できない。
皆が豊かさ、便利さだけを追い求める一方で、社会から疎外された人たちはより一層、孤独を感じてしまう。
そんな日本社会を生んでしまっているのではないかと思っています。

フィリピンの貧困層がなぜそのような関係を作れているのかはみなさんも分かるとは思いますが、なぜならそうしないと彼らは生きていくことができないからです。

ある島の漁村の漁師さんたちは、自分が獲った魚を近所に売って回ります。農家の人たちも作物を売って回ります。そうすることで、食うメシが得られています。そう生活するうえで、コミュニティーの人たちが必要不可欠なんです。

そう考えると日本は全く違う環境にあるといえます。

人々が発展、豊かさを追い求めることは、人間の性であると思うので、それは避けられないと思います。
一旦豊かな生活を経験してしまったら、貧しい、不便な生活はだれでも嫌に決まってます。


だからこそ、先進国と呼ばれる日本社会が今後向かう先、考えるべきことは
「生活が発展していく中で、人と人の有機的なつながりをいかに失わず、保ち、創り上げていくか」じゃないかと思っています。


人間の全ての幸せの根源には、「人と人の有機的なつながり」にあると思います。
何をするにしても、人とつながってやっていかなければなりません。
でも今の社会はそれがなくても、できてしまう。もしくは、それをあまり実感することなく
できてしまう、そんな社会なのではないでしょうか。


僕は、日本がこの先、「人と人とが有機的につながり、幸せを実感できる」社会にするために働けたらと今思っています。それがどういう働き方になるのかは、まったくわかんないです。笑
そのために、地域活性化、無縁社会、教育、経済、自殺、格差社会、社会学
もっともっと日本について帰って色々と勉強したいことがあります。


そして何より、まず自分が最高に幸せだと思える生活をまずきちんとできるようになってから、
他者に対して働きかけたい。
思えば、自分は言ってることと悲しくも、真逆の生活を送っています。笑


何よりこれは自分の人生。自分が何を幸せに感じ、楽しく想い、どう生きたいのか。
それが分からないままに、生きることはどれだけもったいないか。
そしてその自分の欲求に素直になれないことがどれだけ自由でないか。

今ももちろんですが、日本に帰ってからも
常に自分の幸せは見失わず、実感して生きていきたいですね。