久しぶり登場のまりも氏。
考える男。
考えすぎる男。
略して、
カンガルー男。
違うか。。。
最近、人生を生きることは
自分という彫刻を刻む(刻まれる)行為なのでは、
と考えるようになった。
産まれた人は原石で、それから生きることを通じて様々な彫刻家によって削られる。
その彫刻が完成することはない。
彫刻家は、周りにいる全ての人(家族、友人、職場の同僚・・・)。そして自分。
素材が良くても、彫刻家が駄目なら
その人が本来持っているものを活かせない作品(人生)になる。
考えにあたってのいくつかのヒント。
■卒業旅行で強いインパクトを受けたミケランジェロの『アトラス』と、
「彫刻は、素材の内にある形を削りだすことだ」(的な)ミケランジェロの言葉。
■社会人になってからの、『自分が削られている』という強い自意識(自尊心)。
社会人になって色々なシーンで様々なことを体験し、
自分の向き不向きを強く知るようになった。
削り落とされた削り屑を見つめるより、彫刻本体を見つめられたらいいと思う。
(でも、削り屑は何故か愛おしい。)
どう思う?
「削られる感」ということで言えば、
確かにそう思う時も多い。
だけど、なんとなくあまり幸せな考え方にも思わないから、
特に意識してそう考える、というようなことはしていない。
ただ、僕が感じるのは、
彫刻家たちの意思によって自分の形が決められる
というのは違う気がしている、ということ。
親や先生や先輩や上司や色んな人が色んな立場で
それぞれ勝手な思いどおりの形にこのオレを削り出そうとする訳だけど、
そんな彼らの思いどおりに削られてやるほど
オレは「やわ」ではない。
大体、彫刻家たちは、どの程度の意思やビジョンを持っているというのか。
このオレをどう仕上げるつもりかと。
だから、同じ「削られる」といっても、
水や風やなどに削られる「自然の彫刻」に近い感覚。
削られる一方ではなく、
地面みたいに隆起したり、鍾乳洞みたいに伸びたりもする。
或いは、川底の石。
水にも流され削られ石同士もぶつかって転がって削られる毎日だけど、
だけど自ら転がってやる、
すぐに水から飛び出てやる、
それが無理なら最初に海に出てやる、
みたいな。
或いは、アメフトのQBとかサッカーで中盤をやっているイメージ。
まさに削られる。
だけど、削られても、いいパスは出してやるゼ。
未来のオレ、走れ、抜けろ、みたいな。
そう、未来の自分へ、いいパスを出す。
受け取った自分だけが分かる。
それでいい。