結婚前、私は家族の昔のエピソードなどをよく覚えていて両親から「我が家の語り部(かたりべ)」なんて言われたりしていた。
かなり小さい頃からの記憶があり、あの時妹がこうしたとか、父がこんなことを言ったとか、事細かに覚えていて披露しては両親を喜ばせたものだ。
自分が親になってみると、子供の事は全部覚えていたいと思うものの、加齢と共に印象的なエピソード以外は忘れがちで、そんな時かつての私みたいな「我が家の語り部」的存在の人が居ると良いのにとつくづく思う。
些細な家族の歴史を覚えていたことで、両親に喜ばれたのが嬉しくて、私はずっと記憶するということを意識してきたように思う。
自分にとっては、頭の中ではっきりとした映像で残っている記憶。
でもそれは言葉で伝える事でしか人と共有できないもので、きっと言葉にしたその事は、私の頭の中と相手の頭の中では同じ映像になっていない、とも思う。
結婚して、お酒が好きな家に嫁に来た。
夫も義姉家族も皆お酒を呑むので、集まると必ず酒盛りになる。
私は一滴も飲めないので、素面で付き合うことになる。
その時に話題になった事などを後日聞くと、私以外誰も覚えていない、なんてことがよくあった。
そんな時はとても心細い。
私ははっきり覚えているのに、私以外の誰も覚えていない。果たしてそれは本当にあった事なのか、はたまた私が頭で勝手に作り出した偽りの記憶なのか。
実際に見聞きしたことを覚えているのだから、確実にあった事で、でも実体がないから本人以外には、記憶と空想なんて紙一重だったりする。
私にとってはこんなにはっきりしている事なのに、同じ熱量で人と共有できない。
そのことにずっとモヤモヤしていた。
ラジオにフラワーカンパニーズの鈴木圭介さんが出た時に「思い出は、それを思い出す人が居なくなったら無かったことになる」と語った。
ハッとした。
そうか、私の中にしかない記憶は、もはや他の人にとっては「無かったこと」なんだ。
寂しいけど、その言葉がストンと腑に落ちた。
圭介さんは、無かったことにしたくなくて歌にした、と言っていた。
その歌とは「花のようでした」なのだが。
いつも本の世界と自分の頭の中とを、行ったり来たりしている私にとって、記憶している思い出とか、頭の中のあれこれは大切で、確かにそこに在るものだ。
でも何回も思い出す事で、自分に都合が良いように上書きされている気もするし、それでも良いかとも思う。
覚えていない人にとっては無かった事と同じなら、覚えている人が多少美化していたところで、不都合にはなるまい。
「全て忘れてしまったら
なかった事と同じだな
そんなのあんまりすぎないか
そんなの寂しすぎないか」
そんな歌詞と共に羅列される身の周りの些細な景色、「真夏の光線、冬の頬っぺた、風邪の日のこと…」
この歌を聴く度に、自分の頭に溢れる記憶が愛しくなる。
無かった事にならないように、家族のエピソードは私がちゃんと覚えていよう。
「日々のあぶく」
フラワーカンパニーズ