あの日のこと① | 『As the clouds like the wind』 

『As the clouds like the wind』 

風のように雲のように、
流れて生きたい、
力まずに♪

3月11日 14時46分

その時オレは仕事中だった。



その日の前にも震度3くらいの地震が頻発していたんで

それほど気にせずに仕事を続けていると

尋常じゃない揺れになって

すべてが止まった。



まず頭に浮かんだのは

家族のこと。


子供らは学校、

嫁は午後からの勤務に備えて自宅に。


子供らは学校なんでまぁ大丈夫としても

嫁は9階の自室でどうなってるか・・・・



オレは安全管理関係の担当なんで

研究所の対策本部の指示伝達や

安全確認に走り回って。



しかし、

あまりの大きな地震になすすべなし。


っで、

停電してしまったこともあり、

このまま待機しても帰宅が困難になる。

最低限の安全確認後に帰宅が最良ではないかと所長に進言。

所長も承諾し、責任者数人を残して帰宅指示。



渋滞が考えられるので

徒歩帰宅。


45分ほどで自宅付近へ、

まず、いちばん近い下の娘の小学校へ。


下の娘は、花火が怖いくらい臆病。

どれだけ怖かっただろう。


体育館へ行くと

上の娘と一緒に待っていた。



二人の無事を確認し、

先生に頼んで自宅によることに。


自宅につくと

ドアを開けたら、嫁が荷物をまとめて出ようとしていた。



「無事!?、子供らは!?」

「今寄ったら無事だった」



二人で小学校の体育館へ避難。

その夜から小学校の体育館で避難生活。


水道は来ていたが

電気はまだ。


3日間体育館で過ごしたが

電気は来ず、配給もおにぎりが一回。



テレビの世界と思ってた。

救援物資もすぐ来るもんだと思ってた。



そんなことはないんだな。

その日から二日間は誰とも連絡取れなくて

オレも嫁も実家の様子がわからねぇ。


特に、

嫁は両親、兄、妹家族が気仙沼に住んでる。

仕事で兄は南三陸町に。

携帯のワンセグテレビじゃ、

気仙沼、南三陸町とも

ひどい様子。


3日目にオレの両親は避難所で無事が確認された。

だが、嫁の家族の安否は・・・・


電話つうじねぇ。

そんな時、東京に住むオレの弟から電話。

どうやら東京とは連絡がつくらしい。


弟に嫁の家族に連絡を取ってもらうことに。


4日目になって、体育館の環境もかなり劣悪になってきたんで

自宅マンションの集会室に避難。

その夜、弟から連絡あり、義兄と連絡取れて家族、家とも無事確認。

ただ、義妹の旦那が行方不明に。


5日目に電気が開通したんで

最低限の片づけをして自室に戻った。



今現在、

義妹の旦那は見つかってねぇ。

乗ってたトラックと携帯は見つかったが・・・。

義妹は実家に子供らを預けて探しに行ってる。

一人で・・・・。


オレは無力だなって話♪


そういやぁ、

前日、こんなこと書いてたな

『地震』
http://ameblo.jp/mobi1/entry-10826330992.html