その8
1月31日、ポウル・ノイマンがアメリカ合衆国への特命全権公使に任命されました。
2月1日、彼はワシントンへ出発。
デビッド・カヴァナナコア王子が同行しました。併合条約の撤回を交渉し革命勢力の行為によって奪われたものを我々が取り戻すためです。
私がお願いして、E・C・マクファーレンがこの任務に同行することを快諾してくれました。
嬉しいことに神の指図は革命勢力の期待したようにはなりませんでした。
まさに「事を図るは人にあり、事をなすは天にあり。」です。
わたしが派遣した代表団の到着は条約の進展を食い止めるのに間に合いました。
上院議員たちは革命暫定政権側代表団の行為の正当性に疑いを持つようになりました。
ハリソン大統領が任期を満了。
クリーブランド大統領は就任するとまず条約を撤回、状況検証のために役員をここハワイに送り込みました。
貴殿がこの国に到着したおかげで我が国民は安心し、貴殿の存在は安全をもたらしてくれました。
革命政権はわたしと我が国民に対して、貴殿もすでにご承知の間違った行いによって、 とんでもない措置を撮ったことは疑う余地もありません。
もしも大統領がわたしの嘆願に無関心であったら、わたし自身は深刻な事態に陥り、我が国民は独裁国家のものとなっていた事でしょう。
このことからアメリカという国を統治する人物が強い正義感と名誉を重んじる意識を持っていることがよくわかります。
この長々しい声明文のまとめとして、要点を列記しておきます。
(1)宣教師側の長年の大事業とは、自分たちの子孫がいつの日かハワイ諸島の王となり、ハワイを支配し権力を手中にすることであり、それはそのまま1887年革命後の状況でもあった。
W・W・ホールは「我々は12年かけてこのことを計画してきた」と公言。
長い時間をかけた一大事業であり、積年の夢であった。
ハワイ島ヒロのF・S・ライマン氏もまた、1月に人々の前での演説で同じ事を言っていた。
「15年もの長きにわたって、我々はこの事を祈ってきたが、今ようやく我々の祈りが聞き届けられた。」
彼はそう言ったのだ。
権威ある地位を約束された人々が宣教師の原理で振る舞うようになると、どうしても政府は不安定になりやすいもの。
おまけにわたしがたやすく彼らの言いなりにはならないと分かったので、彼らはわたしを嫌っているのだ。
(2) アメリカ公使J・L・スティーブンスによる我が国への内政干渉と、わたしを廃位しハワイ諸島を合衆国に併合するために数名の外国人共謀、そして実際の行動によって、わたしとハワイの人民はこの不幸な立場に追い込まれている。
(3)わたしの新憲法公布への取り組み。
それはハワイの人民の祈りと嘆願に応えたものだった。
国民からの嘆願は1887年故カラカウア王および国会に対して以来出されてきたものである。
国会とはこれによって新しい憲法を作ったり憲法改正を行うことができる正しい道すじである。それこそが法というものだ。
けれども議員たちが買収されたり立法府が腐敗していたら、果たして下院で良い法案が可決されると信頼することができるだろうか。
全く不可能である。
その方法を試みて、失敗したのだ。
残る手立てはただ一つ。それが、内閣の一人の署名とともに、わたしが新憲法を作るということだった。
わたしが遵守を誓った1887年憲法には、「この憲法のほかにはいかなる憲法も存在しない」と記している条文はない。
さらに第78条では次のように謳っている。
「この憲法においては国家元首たる王によりいかなる行為が行われる時でも、明示されない限り、その行為は内閣の同意およびその助言をもって国王により行われているものである。」
憲法第41条の最後の条項には次のように書かれている。
「国王の行為は内閣の一員が連署し、その署名によってその者が責任を負わない限り、いかなる効力も有しないものとする。」
わたしの内閣はわたしをけしかけておいて後になってから真逆のことを勧告した。
彼らの抗議に屈する際に、わたしはいかなる違憲行為も革命行為も犯したことはない、このことははっきり言わせていただく。
そして撤回したのに、どうして改革党はあのように戦争の準備をし続けなければならなかったのか?
(4) 1月16日の午後5時、合衆国公使JLスティーブンスの命令により米国軍隊が共謀者たちを支援するために上陸。
1893年1月17日火曜日午後2時半ごろ、革命暫定政が権樹立を宣言、スティーブンス公使はわたしの内閣にこの政権を承認すると明言。
そして同日午後6時、合衆国の圧倒的軍事力に対しわたしは自らの権限を明け渡した。
(その9 に続く)
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