冒頭に出てくる「ウィルコックス内閣」ですが、

ちょっと紛らわしいので解説入れます。

 

このウィルコックスさんは ジョージ・ノートン・ウィルコックスさんで、

これまでちょいちょい出てきたお騒がせ男の

ロバート・W・ウィルコックスとは全くの別人です。

(親戚関係もないと思います。)

 

George Norton Wilcox,  1982年ごろ

 

ジョージ・ノートン・ウィルコックスは

アメリカ人宣教師の両親のもとハワイ島のヒロで生まれました。

1839年生まれなので、リリウオカラニの一歳年下です。

ヒロにライマン・ミュージアムという宣教学校の記念館がありますが

両親はこの学校で教師をしていて、彼自身も幼い頃はここで育ちました。

 

7歳の時に両親とともにカウアイ島に移ります。

その後ホノルルのプナホウ・スクール、

そして米国エール大学で公共工事などを学びました。

カウアイ島に戻ってからは弟のアルバート と

サトウキビ農園で働きます。

そして数年後にそれぞれ農園経営を始めました。

 

 

この動画では、ウィルコックス家のことを詳しく紹介してくれていました。

 

 

ジョージは大学で学んだ土木工学を生かして

自分の農園グローブ・ファームに灌漑システムを導入しました。

これはその後数多くの農園のモデルとなり、真似をされたそうです。

この成功からさらに数多くの会社の経営に参加し、富を増やします。

 

1880年にハワイ王国議会の下院議員、貴族院の議員も務め、

1892年11月8日に国務大臣に任命されます。

これが「ウィルコックス内閣」と思われます。

翌年1893年1月12日に不信任決議で退陣。

わずか2ヶ月の任期となってしまいました。

 

リリウオカラニは「自由主義者たちは首尾良くやりました」

と書いていますが、

原文では、自由主義者 Liberals と書かれています。 

なんて訳したらいいのか悩んで、革新勢力かなぁとも思いましたが

一応、文字通りのリベラル(自由主義者)にしました。

ウィルコックス内閣はハオレ(白人)の内閣なので、

それの対抗勢力がリリウのいう「リベラル」になるのではないかと推察します。

白人対ハワイ人(先住民族とハワイ系)の構図なんですが、

この辺もちょっと複雑で、

ハワイ人といっても王党派、王政支持派とは限らず、

ハワイ人の中でも共和制政府を(ハワイ人主導で)求める人々もいました。

ロバート・ウィルコックス(お騒がせの革命男)やブッシュなどはそっち側。

カミンズは裕福なハワイ人で王家ともすごく親しくて、

多分王党派なんだけど、リリウオカラニとは個人的にはあまり仲良くはなかったような?

ナヴァヒーなんかは最初は王政ではない民主政治を求めていて

カラカウア王とは対立する場面もあったみたいですが、

白人勢力に対抗するにはハワイ系は一致団結しないと勝てないと気付いて

リリウオカラニを中心に政治改革していこうと変わっていったようです。

 

とまあこんな感じで 思惑様々なハワイ人勢力を一言で言うと

「リベラル」になるのかなぁ。

 

 

「翌日、パーカー、コーンウェル、ピーターソンが」と書いている、

その日付は1893年1月13日。

この日、リリウオカラニは議会の閉会を宣言し、

そしてその後新憲法の布告を企てましたが阻止されます。

そしてアメリカ海軍の武力侵攻をバックに白人がホノルルを掌握。

リリウオカラニが退位へと追い込まれていく(1月16日)のです。

 

この辺りのことは、第38章、39章あたりで描かれています。

 

 

ところで、前々回の記事で、

サミュエル・パーカーが外務大臣を理由もなく退陣させられ、

の下りで

私は1891年8月のこと、としてしまったのですが、

どうやら間違ってたみたいです。滝汗

 

1891年はリリウオカラニが女王に就任した最初の一年。

この年は、リリウオカラニは春から夏にかけて

ハワイ諸島を行幸して周ります。

新女王の就任ということで島々の民と挨拶を交わし

その夏に夫ドミニスが亡くなっています。

 

この一年は、水面下では不穏な動きは山ほどあったのですが、

それでも新しい国王に対して、白人たちもメディアも

表面上は穏やかに祝福をしていたようです。

 

リリウオカラニの日記を読んでいるのですが、

この年1890〜91年の日記は、女王自身は書いていたらしいけれど

日記そのものは失われています。

 

 

 

 

1892年の正月からは読むことができるのですが、

この年の始まりはワイアルア(今のハレイワ付近)でスタートしていて

ハレイワの教会(現・リリウオカラニ教会)に

あの有名な大きな掛け時計と賛美歌集を送ったことが書かれています。

「かわいそうなジョン」と、亡くなったドミニスを偲んでいます。

 

この日記などを参照すると、

巻末資料B(その3)で描かれているのは、1892年の出来事です。

 

パーカー、ギュリック、マクファーレン、ノイマンを大臣に指名したのは

1892年9月12日。

 

セントラルユニオン教会の夫人たちによる昼食会は、

1892年10月17日の出来事です。

 

マクファーレン内閣は、1892年9月12日ー11月1日。

そしてウィルコックス内閣1892年11月ー1893年1月12日。

という流れでした。

 

 

日記はまだまだ途中なのですが、

読んでて目につくのが、

いろんな人がとにかくお金を借りに来て、

それを貸してやってる覚書みたいなのが

めっちゃ多いんですよね。。。。

みんな、リリウオカラニが無限のATMと思ってたみたいですえーん

 

お金のことで相手を心配させるのが嫌だったみたいで

リリウオカラニは大抵気前よく都合してやってるんですけど

そういうところが、養姉バーニスの夫のビショップには

受け入れられなかったのだろうな〜、、、うーん

銀行家だからね、彼。

 

まだまだ日記は読み切っていないので、

今後も訂正多く出てくると思いますけど、

許してちょ。てへぺろ

 

 

 

 

 

 

 

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