~~~後編~~~

 

 よく晴れた美しい1月のその日も終わる頃にはちらほらと雪が舞い始めていた。

その中を私たちは帰りながら、ハワイからの一行とともに新年を祝いもてなしてくれた人々の優しさ、その周りの気の良い人好きのするたくさんの友人たちへの感謝で胸がいっぱいになっていた。

 

J・T・トロウブリッジ氏とW・T・アダムズ氏(オリバー・オプティックというペンネームでよく知られている)(訳注:①)の二人をリー夫妻から紹介された。

非常に面白い、まさに紳士そのものといった男性たちだ。

かなりの年配でありながら、アダムズ氏は聡明で朗らかなかただった。

彼のおしゃべりには穏やかなウィットのきらめきが散りばめられ、良質の豊かなユーモアにあふれていた。まさに彼の魅力的な自作品に描かれている彼そのものだ。

彼はその後亡くなったが、彼の長年の友人たちは、彼の死を文学にとって大きな痛手としていつまでも悼むことだろう。

 

 

 スターリングワースのコテージにいる間、イートン夫妻(リー夫人のパーティーで出会った)がとても心のこもった素晴らしお土産を持って来てくださった。

それはご主人手製のペーパーカッターで、古い軍艦コンスティテューション号の原材で作られていた。

もうずっと昔になるが、その軍艦がハワイ諸島を訪れた時のことを漠然と記憶している。

私はまだほんの子供で、その時この船はアメリカでも最も有名な船の一つだよと教えられた。

 

 ボストン滞在中には、冬のナイアガラの滝見学にも出かけた。

3~4日の旅であったが、私たちは誰一人行き方を知らず、ホテルに至っては自分とお供の者たちみんなのために私が自分で直接電話して予約をしたが、全くなんの不便もなかった。

 

 それまで噂に聞いていた、この大瀑布についての話は、どれも皆本物には程遠いものだった。

そして永遠に変わることのないあの莫大な水量を見た時には、言葉では到底表現できぬ畏怖の念に打たれた。

 

 ゴートアイランドの絶壁の縁に立った時、私が絶えず考えていた、最も鮮烈な印象は、大自然と直接向かい合った時、人間はなんとちっぽけなものかということだった。

この、世界の偉大なる驚異の一つのそばに立っている間、私は創造主がまさにそこに在(まし)ますのを感じていた。

それでもなお、人は畏れを知らず、ここであろうとどこであろうと、創意工夫で自然の力を支配している。

そして自らの発明の才能と技術力によって人間は今、この恐ろしいキューレボルン(訳注:水の姫ウンディーヌの伯父で水世界の王)を従順な召使いに変えつつある。

とある会社によって瀑布の水を引く水路が建設され、立派に成功している。

この水力を大きな建物に引き込み、発電をして、滝周辺の地域全体に電力を供給しているのだ。

そのほかにも幾多の目的のための電流が20マイル以上も離れたバッファローの街に運ばれているという。

 

ゴートアイランド、1903年

 

 

 アメリカ側からの滝の眺めは素晴らしかった。

いくつもの滝の環が空中に巻き上がり、風の洞窟 Cave of the Winds から吹いてくるそよ風によって幻想的な姿になって流されていく。

それからまた霧雨が川を通り過ぎたり、急流に沿って流れて行く。

 

昼食後は馬車に乗って崖沿いにドライブし、その後で大きな吊り橋(Suspension Bridge)を渡ってカナダ側にも行ったりした。

橋そのものが驚嘆ものであり、これを生み出した頭脳とそれを作り上げた技術の創意工夫をこれ以上ないほど見せつけている。

 

Suspension Bridge, 1895年

 

 ホースシューの滝では、近づくほどに季節が冬であることを嫌という程思い知らされた。

塀にも建物にもたくさんの氷柱、木々はきらきら輝く水晶のような氷に覆われ、断崖の縁の土手にかかった鉄条網には大小様々な形の氷柱がぶら下がり不思議な模様を作っていた。

 

沸き立つ湖にも行き、雪の上で野外写真を撮ってもらった。

そして本当に色々なことを学んだ楽しい訪問を終えて、ブルックリンの私たちの家に生涯の記念となるべく大切な写真を持って戻ってきたのだった。

 

 ボストンを去る前、私が1月のうちにやるつもりでいた家族の集まりを、いとこのN・G・スネリング氏が彼のお宅で開いてくれ、そこに私たち一行を招待してくれた。

 

( ブログ主注:

 Nathaniel G Snelling : 1823-1902.  はリリウオカラニの夫ドミニスのいとこ。

 ドミニスの母の姉サラ Sarah Dargue Jones と夫 Enoch Howes Snelling の息子に当たる。)

 

一族郎党全員集合したかと思うほど集まった家族たちと会う喜びに恵まれた。

三十人以上の親類、それに心優しき招待主の本当に親しい友人たち数名も集まった。

一つの部屋の中央は、飲み物や軽食がいっぱいの花々でからざれたエレガントなテーブルですっかり占められており、あらゆる点で私たちには楽しいことばかりだった。

 

親戚たちと対面し、それぞれの口から心のこもった歓迎の気持ちを伝えられたことは、あの長く辛い経験の後では尋常ならぬほど救われた気持ちになった。

そして、かつて、私の夫が自分の一族に挨拶をし、カピオラニ王妃とともにボストンの栄光ある客人となったあの時の家族パーティーが、私に鮮やかに蘇えったのだった。