1895年2月5日、6日、7日の三日間に渡って

リリウオカラニの公判が行われました。

これは軍事法廷で行われたのですが、

場所はイオラニ宮殿の戴冠の間。

装飾は全て剥ぎ取られ、殺風景な室内でした。

 

リリウオカラニの代理人弁護士、ポウル・ノイマンは

まず、軍事法廷で裁かれることに異議を唱えますが、

(だって、戦争しているわけじゃないんだから、ってことで)

これは棄却されました。

 

(このあと何度も女王側の代理人から異議が唱えられますが

ことごとく棄却され続けます)

 

最初は反逆罪で訴えられたのですが、

その後「犯罪隠匿罪」に切り替えられました。

これに対してリリウオカラニは

自分は一切関与していない、と無罪を主張します。

 

ところが女王側の人間たちが、

検察側の証人として次々に女王を裏切って行きました。

反逆罪は非常に重い罪なので死刑を求刑されるのが普通ですが、

これらの証人たちは司法取引によって

女王を裏切ることで自分の身を助けてもらうことを選んだのでした。

 

その名前を、女王ははっきりと書き出しています。

 

リリウオカラニの近衛兵の隊長だったサミュエル・ノウレインは

ロバート・ウィルコックスとはいとこの関係で、

リリウオカラニのボディガードとして信頼を置かれ、

反乱軍では指揮を取っていました。

( Stephen Dando-Collins著、”Taking Hawaii" 参照)

彼は裁判で反乱の首謀者は自分だと明言したものの、

リリウオカラニが「反乱の計画を知っていたはず」と証言し、

リリウオカラニの関与をほのめかしました。

 

チャールズ・H・クラーク(1861-1938)は、

この裁判に女王の介添えとして付き添っていた

クラーク夫人の夫。

クラークが検察側の証人として出廷したことは

リリウオカラニ同様、妻のジェーン・クラークにも衝撃でした。

彼の証言は、

ノウレインから「いよいよ(反乱の)時が来た」と告げられ、

それをリリウオカラニに話したこと、

そしてそれに対しリリウオカラニからは

「自分も同じことをノウレインから伝えられた。

 成功するといいと思う」と言われた、

というものでした。

つまりリリウオカラニが反乱について事前に知っていた、

という論拠になるものです。

(この証言内容について、ノウレインは反対尋問で否定しています)

 

W・W・カアエ と本書では書かれていますが

正しくはW・F・カアエ(William F Kaae,  1870-1938 )

マウイ島ラハイナ出身で、父親のJunious Kaaeは

カラカウア王と親しく、アヘン疑獄に関与していた人物として知られています。

1893年にリリウオカラニの私設秘書として雇われた時には

23歳の若者です。

 

William Frederick Kaiu Kaae (1870–1938),

 

彼は裁判で(この時25歳)

「憲法を清書した」と証言し、

リリウオカラニが逮捕される前、何か書類らしいものを焼却していたと

意味ありげな証言を行いました。

 

ケアヒカアエヴァイ とは、

女王の庭師だったジョセフ・カアエヴァイ(もしくはカアウヴァイ)

のことかと思われます。

彼は「反乱騒動の翌朝、女王から昨夜のニュースについて聞かれ、

「まずいことになった(It had gone unfavorably)」と答え、

女王は「そうね」と返事をした、

と証言。

 

チャールズ・ウォーレン(Charles Warren,    1867 -1946)

はカラカウア王、リリウオカラニ女王と二代に渡って

ボディガードとして仕えていた人物のようです。

彼は、記録によるとこの事件で武器の調達に関与していたらしいですが、

裁判での証言内容はよくわかりません。

 

ジョージ・H・タウンゼンド(1854ー1946)は

リリウオカラニに長く親しく仕えた侍女イブリン・”キティ”・ウィルソンの弟です。

祖父プリチャードは、サデアス号の船長で、

(ハワイに最初のアメリカ人宣教師を連れてきた船)

ジョージもエマ号という船の船長をしていました。

キティの息子でのちのホノルル市初代市長となった

ジョン・ウィルソンの叔父ということになります。

ジョージはこの時の反乱で、王党派の武器調達のために

ワイマナロ号の司令役をしたようです。

 

ワイマナロ号の船長デイビスとともに、

こちらもどのような証言をしたかはちょっとわからないのですが

文脈からすると、女王がこの反乱計画に関与していたことを裏付けるような

証言(それが事実にしろ推測にしろ)をしたのでしょう。

 

彼らは反逆罪として多分死刑を求刑されるところを

女王が関与していたと証言すれば減刑する、

と司法取引を持ちかけられて、共和国側の証人になりました。

 

女王を守るため、女王を復位させるため、という最初の思いは失われ

自分と家族を守るために、女王を裏切ったのです。

(彼らの多くはその後ハワイ共和国の公務員職などを与えられています。)

 

女王は徹底的に自分の関与を否定し、

かつ、

自分の周囲の人間や王党派として反乱に関わった人間について

何も知らない、事実はない、と最後まで毅然とした態度を貫いたようです。

本章の前編でリリウオカラニが語っていたのはそういうことでした。

 

ところで、私が副読本として併読している

ヘレナ・G・アレンの"The Betrayal of Liliuokalani"には

 

 

 

 

 

リリウオカラニが法廷に立って述べた声明の部分ですが、

(このブログでは第45章(中編))

 

「彼女は、そうしてハワイ語で語り出した。

まるでハワイ語を話さない人間にうんざりしているかのように、

彼女は直接、自分の国民に向かって語りかけた。」(p.334)

 

と書かれています。

これはどういうことなのか、

当時の新聞などをネットであれこれ探してみたのですが

女王が法廷でハワイ語で証言をした、

ということを書いたものがなかなか見つかりません。

 

しかし、これが事実であれば、

この流れでリリウオカラニが法廷で

ハワイ語で堂々と自分の立場を主張した、という頭で

もう一度読み返してみてください。

 

彼女がハワイ語で話しかけた相手は誰だったのか。

なぜハワイ語で陳述証言をしたのか。

 

誰に、何を訴えたかったのか。

 

そのことを思うと、なんか私はもう、

胸がいっぱいになってしまって、

涙目で今これを書いています。

 

ハワイ共和国、と、いみじくも「ハワイ」を名乗りながら

ハワイ語ではなく英語で裁判が進行していたことも

ここから伺えます。

その中で、

すべての責任をなすりつけられたリリウオカラニが

堂々と、ハワイ語で、自分の立場を、

自分の思いを声に出していた姿。

 

それは、細かいことは何も知らなかったであろう

白人の異邦人、ホアキン・ミラーの胸にも感動を与え

また多くの傍聴人の心も強く揺り動かされたことを

本章のその後の文章から私たちは知ることができます。

 

 

ヘレナ・G・アレンの本によると、

その後この証言内容の翻訳が

軍事法廷に提出され、

翌日、後編に書かれているように

数カ所を削除するようにと指示が出されました。

こうして、2月5日から三日間に渡る、

リリウオカラニの公判は幕を閉じました。

 

そして判決が出るのは、2月の終わり。

次章でその内容とその後が語られます。