訳注:② リジー・カポリ

Lizzie Kapoli Kamakau   1852 - 1892

 

 

リリウオカラニの家に住み込みで暮らしていたという

リジー・カポリについては

詳しいことはあまりよくわかっていません。

 

彼女はリリウオカラニがまだ王女だった頃、

リリウオカラニの率いる合唱団 

Hui Himeni Kaohuokalaniのメンバーでした。

 

カメハメハ王家のルース王女とも親しい間柄で、

ルース王女の親しい仲間との夕べにはリジーがよく歌を歌った、

ということですから美声の持ち主だったんでしょうね。

 

ルース王女が亡くなった時にリジーは

バーニス・パウアヒ王女と一緒にベッドサイドで

その最期を看取りました。

ルース王女の遺言に名前を挙げられた8人の中にリジーの名前もあり、

クイーンストリートにあったルース王女の家を贈られています。

 

バーニス・パウアヒも遺言で彼女に毎月40ドルを与えています。

 

 リリウオカラニの妹、ミリアム・リケリケとは年も近く

(リジーが一歳年下です)仲が良かったそうです。

1868年、16歳だったリジーは、リリウオカラニ、リケリケとともに

Ahe Lau Makani や Liko Pua Lehua といった曲を共同で作りました。

 

 

 

 

 

そのほかにもWailua Alo Lahilahi,  Waikiki 、Ka Iiwi Polena, 

 Pua Koolau Lei O Kaiulani,   Eia Aia La Ika Uka,  などの曲を作り

リケリケ王女が亡くなった時は彼女の作曲・アレンジによる

Imi Ia Ka Lani という追悼曲を

リリウオカラニの合唱団が歌ったそうです。

 

王族女性たちと親しく付き合い、

こんな風に大切な友として扱われたリジーですが、

1888年、ハンセン氏病であることがわかり、

同年5月、モロカイ島カラウパパに送られました。

 

この時リリウオカラニはカカアコまで出向いて

(カカアコにはハンセン氏病患者専用の病院施設がありました)

彼女に別れを告げています。

 

そして三年後、そのままカラウパパでこの世を去りました。

享年39歳。

1891年の、多分、秋のことです。

 

亡くなられた日付がはっきりわからないのですが、

当時のハワイの新聞記事をいくつか見ると、

10月末から11月にかけて、

故リジーの遺産に関する記事がいくつかあるので、

夏の終わりから秋にかけての頃に亡くなったのではないかと推測します。

 

ということは。

 

この年の4月に、リリウオカラニが

ハワイ諸島巡幸の最初にモロカイ島カラウパパを選んだのは、

一つにはリジーに対する強い思いがあったからかもしれないな~、

と私は想像します。

あくまで想像ですが、、、、

 

 

亡くなる前にリジーはリリウオカラニと

最後にもう一度対面することができたのではないか。

そうであってほしい。

 

L

Lizzie Kapoli Kamakau

 

 

リリウオカラニの人生を辿っていると

当たり前のことですが、

彼女と関わる人々の人生もまた、本当にドラマチックです。

リジー・カポリの生涯は、

謎が多くはっきりしないのですが、わずかな手がかりだけでも、

何か心を動かされるものがいっぱいあります。

 

リジーに関する記述の多くは

“Kalaupapa: A Collective Memory” by Anwei Skinsnes Law 

 

 

 

 

 

の中の記述と、

上記の本を紹介・引用しているこちらの記事

Kalaupapa and its Legacy in Hawaiian Families: How Tragedy Begets Pride

から多くを参考にさせてもらいました。