訳注:① CBウィルソンと彼の妻

 

イブリン・”キティ”・タウンゼント・ウィルソン

Evelyne Kittie Melita Kilioulani Kaopaokalani Townsend Wilson

1849ー1898

 

CBウィルソンについては以前にも別記事で取り上げましたので、

ここでは妻のイブリン・タウンゼンド・ウィルソン

(通称キティ・ウィルソン)について。

 

19世紀後半、ハワイ社交界の花形だった

イブリン・”キティ”・ウィルソンは、ホノルル生まれ。

母親ハリエットは、

1820年ハワイに最初にアメリカの宣教師を乗せてきたサデアス号の

船長ブランチャードとモロカイ島の女酋長

(Kaholo Kamokukaniki?もしくはコロア?)の間に生まれた

ハパ・ハオレ(半分白人の血が混ざったハワイ人)。

 

父親はホノルルで公演中の劇団のイギリス人役者

ジョン・タウンゼンドと言いました。

1849年、イブリンが、その後弟のジョージが生まれた後、

父親は家を出て姿を消してしまいました。

 

 

やがて弟ジョージは船乗りになり(のちにモロカイ島で暮らします)

イブリンはホノルルのカヴァイアハオ教会に通い、

リリウオカラニ王女(当時)の合唱隊のメンバーになります。

 

ハパ・ハオレの母とイギリス人役者の父の間に生まれたクォーターのキティは、

一際目立つ美貌の少女で、父親がいないということもあり、

リリウオカラニはイブリンを非常に目にかけ、

何かと面倒を見ていました。

やがてリリウオカラニの侍女として、

そして心を許す親しい友人になっていきます。

 

1869年に英国ビクトリア女王の息子エディンバラ公爵が

ハワイに寄港した際、

リリウオカラニがワイキキの私邸で

公爵をもてなす盛大なルアウを開きました。

(本書の 第5章 後編に出てきます)

二十歳のキティはハワイ宮廷の花と呼ばれたブッシュ夫人とともに

公爵の肩に美しいレイをかけ、頬にキスをしたことが語り継がれています。

 

 

 

夫となったチャールズCBウィルソンもまた、

祖父はタヒチ伝道の宣教師、

その息子のパペーテ生まれのバーネット(船乗り)が

タヒチの女酋長テタリアとの間にもうけた二人の息子の一人でした。

 

CBの父は海で行方が分からなくなり、

母は息子を農園の監督官をしていたハリー・イングリッシュという男性に預け

タヒチに戻ってしまいました。

まだ3歳で両親を失った幼いCBと弟は、

この男性とともにホノルルにやってきました。

1853年のことです。

 

 

タヒチ女性とイギリス人の間に生まれたCBと

ハパ・ハオレの母とイギリス人の間に生まれたキティ(イブリン)。

父親の顔を覚えていない、どこか似た二人が

結婚するのは1869年。

結婚前、CBがイブリンに熱を上げていた頃から、

リリウオカラニは二人をよく知っていた、と書いています。

 

ウィルソンはスポーツ万能で非常にハンサムな男性と評判でした。

ヨットやカヌーといったウォータースポーツの名手で、

ボクシングのチャンピオンでもありました。

まだ王になる前のカラカウアと親しく付き合いがあり、

またリリウオカラニの夫ドミニスとも親交があったのは、

こうしたスポーツを通じての面もあったそうです。

 

カラカウア王家の信頼を得て、

ウィルソンはいくつかの政府の役職につくのですが、

1886年水道局長だった彼は横領スキャンダルで告発されました。

この時リリウオカラニは個人的に彼を(夫妻を)経済面で助けました。

 

さらに、カラカウアの晩年、

カラカウア王を廃位しリリウオカラニを王座につけようという陰謀があったのですが、

ウィルソンはこれにも関与していたそうです。

 

リリウオカラニ政権では、元帥(Marshal)に任命され

警察隊を指揮します。

 

野党の自由党が女王に敵対し、

女王を廃位し新憲法発布を計画していた時には

その陰謀を暴きました。

 

がその一方で、ウィルソン自身も新しい憲法を女王に要求して、

軍隊も発動させると脅すようなこともした、という疑いもあるそうです。

 

はっきりとは書いていないのですが、リリウオカラニからも、国民の間でも、

彼に対する評価はこの後どんどん落ちていくようです。

 

道義心に動かされて女王を守る場面もありますが

自分の地位や身分を守ろうと政府に恭順して

リリウオカラニを裏切ることになったり、と

普通の人間ならではの揺れがあったのだと思います。

その点は、同じ凡人(?)の私にはわからないでもない・・

っつ〜か、普通だよね。って感じです。

 

スポーツマン、商人としては成功しても、

行政官、政治家としては信念というものがちょっとかけていたのかも。

そういう人は彼だけではなくて

現代の、日本だけではなく世界中の政治家の中にもゴロゴロいますもんね。

(というか、そんな人ばっか????)

 

 

が、ウィルソンの妻キティに話を戻しましょう。

 

イブリンは本書でもあちこちにその名前が出てきます。

 

第10章でリリウオカラニが1878年初めて訪米をした時も

随行の一人として名前が挙がっていました。

 

キティは夫とは一線を画し、

リリウオカラニに強い忠誠心を持っていたようです。

この後女王が逮捕拘束され幽閉された時も、

自ら志願して女王のそばに仕え続けました。

一人息子のジョン少年(のちのホノルル市長ジョニー・ウィルソン)が、

毎朝のように女王に花を届ける一人だったことも以前にお伝えした通りです。

 

ジョンは大きくなって

モロカイ島出身のやはりハパ・ハオレのフラダンサー、

ジェニー・キニ・カパフを見初め、彼女と結婚しますが、

キティはこの結婚に反対だったそうです。

 

(ジェニーについては面白い記事がありますので、

ご参考までに。

「王権とフラ ーハワイ王国における先住民文化政策ー」

 p,203~       目黒志帆美 )

 

 

理由ははっきりわかりませんが、

もっとちゃんとしたいいとこの娘さんを、

という感じだったみたいです。

 

息子のジョン夫妻は結婚して

モロカイ島の北側にあるペレクヌという僻地に暮らした、という話を読んで、

あら?と思った私。

 

モロカイ島の非常に尊敬されたクプナ、

クムフラのアンティ・ハリエット・ネさんの本に、

似たような話が出てたな。と思い、

調べてみたら、アンティのおじいさんはこのジョン・ウィルソンと従兄弟になるようです。

彼らの時代のモロカイ島の暮らしがどんなものだったか、

この本で読むことができます。

非常に興味深いです。

 

 

 

(今、↗︎の値段見てびっくりびっくり

 多分ハワイの書店か古本屋に行けば10ドル前後です)

 

 

キティは本書が発行された頃、

1898年に亡くなりました。

まだ50歳前でした。

 

生涯、リリウオカラニの友達だった、

ハワイ随一の美女とも言われたキティ、

どんな人だったんだろう?

 

と思ってずっと写真探していますが、

今のところ発見でき〜ず。ショボーン

リリウオカラニに関連する写真のどこかに写っている可能性もあるのですが、

名前を確認できません。

捜査は継続中!

見つかったら、報告します!

 

ではまた〜