訳注:② ノイマン夫人

 

本書では、 Mrs. Newman と表記されていますが、

Neumann が正しいようです。

 

カラーカウア王の時代司法長官を務めた、

ドイツ出身のPaul Neumann の奥様です。

(ポール・ニューマン!?と読みたいところですが、

ドイツ風にはパウロ・ノイマンとなるらしい。)

 

 

パウロ・ノイマンはプロイセン生まれ

(現在のポーランドからリトアニアあたり)のユダヤ人です。

 

若くしてカリフォルニアに渡り弁護士の資格を取り、

カリフォルニア州議会の上院議員を3期務めるなど

政治家としても活躍しました。

 

同じ頃カリフォルニアで砂糖の製糖工業で頭角を現していた、

のちのハワイの砂糖王、クラウス・スプレックルスとこの頃出会い、

法律顧問として彼の下で働きます。

 

スプレックルスはハワイ原産のサトウキビを輸入し

アメリカで製糖して売り、成功しており、

ハワイ王家と密接な関係を築き、それを利用して

マウイ島で広大な土地を手に入れ、大きな農園を経営。

(現在、マウイ島にあるスプレックルスビルという地名は彼にちなんでいます)

 

スプレックルスはハワイ王家のメンバーを

しばしばカリフォルニアに招いてもてなしていたそうで、

こうしたことからノイマンもハワイ王家との繋がりができました。

 

やがて1883年、ノイマンは

スプレックルスの法律顧問としてハワイに渡ります。

同年末にはカラーカウア王の枢密院のメンバーに登用され、

司法長官にも任命されます。

 

Paul Neumann 1839−1901

 

 

リリウオカラニが女王になると

ここでもまた司法長官をつとめ、

その後革命が起こり女王が廃位されると、

女王個人の法律顧問としてワシントンに渡り、

米国の関与に抗議する使者となります。

 

1895年、王政復古派の蜂起の際には

反逆罪で裁判にかけられたリリウオカラニ女王や

王制派の活動家たちの弁護に立ちました。

この時、彼からの助言を受け入れて女王は王位を退き、

女王を支持して反逆罪に問われた活動家たちは放免されたということです。

 

王家と密接な関係を築き、

決して良い評判ばかりではない富豪スプレックルスの

法律顧問を長年務めたノイマンは、

ハワイ王家の法律顧問を務めながらも

女王に退位を促す役目も果たしています。

 

一体どういう人物だったのか?

私にもまだよくわかりません。

 

このブログでは今、リリウオカラニの自伝の

ちょうど真ん中あたりを読んでいるところです。

ここから後半に読み進めていくと、

このあたりの経緯がリリウオカラニ自身の言葉で語られることと思います。

 

彼の妻はエリザといい、

娘4人と息子2人の五人の子供を育て上げました。

娘の一人、エヴァ(1871-1921)は

アルフレッド・フォウラーという男性と結婚した

とWikipedia には書かれています。

アルフレッドに、ジョンというミドルネームがあったかどうかはわからないのですが、

多分この娘が、この時ロンドンでリリウオカラニと一緒にいた女性だと思います。

 

1887年の時点で既にフォウラー夫人となっていますので、

16歳で結婚していた、かなり若い花嫁さんだったことになります。

夫がどういう人だったのか、記録を探しましたが見つかりませんでした。

ノイマン夫人、娘のフォウラー夫人は

リリウオカラニたちの随行員のメンバーだったのか、

それともロンドン在住だったのか?

この辺もはっきりわかりません。

1901年に夫のパウルは亡くなり、

妻エリザはメキシコのアカプルコに移ります。

そして1908年、サンフランシスコ行きの船から

身を投げて、この世を去っています。

(何があったんでしょう・・・?)

 

   ****

 

ところで、今日、11月11日は

リリウオカラニの命日。

(ハワイ時間では明日になりますが)

 

去年の今日、書いたブログがありますよ、と

アメーバからお知らせがあったので

もう一度ここでリブログしておきます。

 

 

心やさしき女王であり、

偉大な音楽家であった、

ハワイ王国最後の女王となった、

リリウオカラニの命日を記念して。