少し話は戻りますが、1880年、ハワイ王国政府が

初めて王家の歳費を負担することが始まりました。

 

それ以前は、

ハワイ王家は家計を自前の財産のみでやりくりしていたってことです。

 

カメハメハ王家は非常に広大な領地をハワイ諸島各島に持っていて、

租税収入があったり、

それを貸すことで賃貸料があったりと裕福でした。

 

カメハメハ王家はルナリロ王で断絶するのですが、

王家の所有していた所領は

王位を継がなかった二人のカメハメハの一族、

ルース王女、バーニス・パウアヒ・ビショップのものとなりました。

 

 

カラカウア一族は、王位は継いだけれども、

その財産までは継承しなかったというわけです。

 

カラカウア一族の個人資産は、

上級貴族だった母(その父、アイカナカが領地をいくつか持っていたので)

からの相続がほとんどでした。

 

リリウオカラニが相続した中に

ワイキキのハモハモという土地と二軒の家があったことは

前に書いた通りです。

 

この他にも何箇所か母所有の土地があったのですが、

それらの多くを、カラカウアが自分のものとしてしまい、

それだけでなく、妻カピオラニのものとして

義姉妹や甥たちに受け継がせる形にしようと、

カラカウアは虎視眈々と狙っていた(とリリウには思えたようです)ため、

リリウオカラニもリケリケも気が気でなかったようでです。

 

第10章の後半で、

リリウオカラニが夫ドミニスの政治的な身分を守ろうと

(王室領管理官、知事職など)

必死で兄に抗議する場面があったのは、

ドミニス家のプライドや権威の問題だけでなく、

一つには家計を守るという切実な面もあったのではないでしょうか。

 

加えて、カラカウアの

新しい物好きで贅沢好きで酒とギャンブル好きな

(こう書くとどうしようもないクズ男みたいになってしまいますが!)性格が、

家計をどんどん圧迫していきます。

 

それでも自前でやってることだったら議会の口出しする問題ではなかったのです。

現に、それ以前の王様たちもそうだったし、

特にカメハメハ4世やルナリロ王はひどい浪費家だったようですから。

ハワイ王家に倹約などという言葉はあまり馴染みがなかったのでしょう。

 

ところがカラカウアが王になると

カメハメハ王家と比べて個人資産が格段に違ったため、

そうは行かなくなりました。

 

王家の歳費を国家が負担する必要ができ、

これが議会で承認されます。

(イギリスやヨーロッパの各王室でも、日本でも皇室歳費というものがありますよね。)

 

こうなってくると、国家財政に関わる問題になります。

しかも、閣僚の多くが白人なのですから、

国王の動向・無駄遣いなどには神経をとがらせるようになるのは、

言って見れば自然な流れでしょう。

この辺りにも、カラカウア一族の(そしてリリウオカラニの)

悲劇の一因がありそうですよね。

 

前年の1880年、ポマレ王朝のタヒチ王国が

武力によりフランスの軍門に下り、フランス領になります。

 

タヒチはハワイと同じく各部族が勢力を競っていた部族国家でしたが、

カメハメハ大王のようにポマレ一世が西洋人から手に入れた武器をバックに

1791年タヒチを統一。

タヒチ王国となっていました。

 

その後、ハワイと同様に

キリスト教の伝道者たちが政治に介入し始めるようになり

ポマレ4世の代についにフランスに併合・保護国となってしまったのです。

 

カラカウアがこれを衝撃を持って

深刻に受け止めたことは想像に難くありません。

 

また、1876年にはカラカウア自身にも

暗殺の危険を感じる出来事があったようで、

側近に注意を促していたようです。

 

こうした背景があっての、

1881年合衆国大統領の暗殺事件。

さらに同じ年の3月にはロシア皇帝も暗殺されています。

 

このような中で、ハワイ王として世界を回ったカラカウアは、

同じ太平洋の小さな島国の日本が欧米諸国とどう渡り合い、

皇室をどうやって維持しているか、行こうとしているのか、

非常に強い興味と共感を持って日本での時間を過ごしたようです。

 

当初、2−3日間のつもりだった日本滞在が

結局2週間以上にも渡って、

天皇の賓客として丁重にもてなされ滞在しました。

 

やがて彼は日本、そして太平洋諸国と連合し、

欧米の列強に対抗しようという壮大な野望を描きます。

姪のカイウラニ王女と皇室の縁組を提案したことは有名ですし、

サモアやトンガにも連合の相談を持ちかけたりしますが、

結局どれも実を結ぶことはありませんでした。

 

リリウオカラニにも実子はいなかったのですが、

カラカウア王夫妻も子供に恵まれていませんでした。

王家の行く末とハワイの行く末を、誰が一番案じていたかというと、

カラカウア自身だったでしょうし、

自分の命も危ういという危機感も募っていたのです。

 

こうした流れの中で、1882年6月、

のちにリリウオカラニの養子となるカイポが誕生します。

 

そして同じ年の11月、王室典医であるトルソー医師は、

リリウオカラニに非常にデリケートな問題を告げました。

 

夫ジョン・ドミニスが、

リリウオカラニの若い侍女(メアリー・パーディ 1855-1921)を妊娠させた、

という話です。

しかも、2ヶ月後に出産を控えているという状態でした。

 

ドミニスの女遊びはこれ以外にも多数あることを

遊び仲間でもあったトルソー医師はよく知っていました。

 

彼はリリウオカラニに対しては敬意と思いやりを持っていたので、

リリウオカラニを守りたい彼にとってこの話を告げるのは辛い役目でした。

 

リリウオカラニは敬虔なキリスト教徒でしたから、

夫自身に対して愛情があったかどうかは別として、

夫が外に(しかも自分の侍女に)女を作り子供を産ませる、

という話はショックであったはずです。

 

彼女はこの話を聞いてまず、

「生まれてくる子供は、自分とドミニスの子供として育てる」

と言ったそうです。

 

夫の名誉を守るためだったのか、

子供のいないドミニス家のことを考えてのことだったのか、

また別の気持ちもあったのか、よくわかりません。

 

が、リリウオカラニの子供となれば

王位継承者ということになってしまいます。

様々な問題が絡み合うこの問題に、

リリウオカラニは多分、深く傷つきながらも取り組みました。

 

1883年1月9日、

リリウオカラニのワイキキの私邸、ケアロヒラニで、

その男の子は生まれました。

父親の名前と同じジョンと名付けられたその子は、

母方の祖母メアリ・パーディの養子となりました。

リリウオカラニはジョンを経済面から支え続け、

夫が亡くなった後、1910年、

正式に養子縁組をしました。

そうすることで、ジョンが、

実の父ドミニスと、養母リリウオカラニの財産を

正当に相続できるようにするためだったと言います。

 

 

子供好きだったリリウオカラニは、

複雑な関係から生まれたジョンに対しても最後まで深い愛情を注ぎ続け、

その息子の死を見送ってから

後を追うように自分も天に召されていったのでした。

 

Queen Liliuokalani and her hanai son,  John 'Aimoku Dominis